1928年に創設された小さな航空機メーカー、ノースアメリカン。T−6が大ヒットしてそれなりに注目を浴び、イギリス空軍からP−40のライセンス生産の依頼を受けた。ところが、この小さなメーカーはそれを断り、無謀としか思えない逆提案をした。
「同じ日程で、P−40より高性能の全く新しい機体を提案する。」
アリソンV−1710を搭載したその戦闘機は、正式な契約から僅か102日でロールアウト。その約一ヶ月半後の1940年10月26日、初飛行に成功した。
飛びぬけた高性能ではないものの、最高速は同じアリソンを積んだP−40のそれを約50km/hも上回る600km/hを超え、中、低空域では運動性も良く、ムスタングTと名づけられた機体約20機がイギリスが送られ、1942年3月10日に初の出撃を行った。これが不朽の名機P−51ムスタングの始まりだった。
でもって、契約上アメリカ陸軍は2機のムステングTを受領していたものの、
「テキサンがいくら評価がエエっちゅうても、所詮練習機。どーせ、そこが作った戦闘機。テキサンに毛の生え
たようなもんじゃろー。」
って言ったかどーかは分かりませんが、ライトフィールドちゅうところにほったらかし。ところが1941年12月、あの真珠湾ですヨ。急遽、現有する全ての航空機の洗い直し、要は性能の再調査ですね。で、埃を被っていたムスタングTをひっぱりでしてテストしたところ、あーらビックリ!
「どーしてほっといたのよ!」
「そんなこと言ったってぇ。あんときゃあなーんも言わんかったのにぃ!」
泡を食って発注したものの、そう急には出来上がるわけも無く、銃火器を20mm機関砲4門に変更したイギリス向けのムスタングTAを分けてもらい、と言うか、強引に引き抜いて?P−51として採用したのですねぇ。で、その約半年後、若干性能のアップしたアリソンを積んだP−51Aとしてでき上がってきたのですよ。それでも所詮、といっちゃあ失礼かもしれませんが、アリソン。設計の優秀さはまだ存分に発揮できていない。で、スピットファイアに搭載されていたマーリンエンジン。アリソンとほぼ同寸法なのにはるかに高出力。インチとメートルの違いを克服してパッカードにライセンスさせた。そのパッカード・マーリンを積んで生まれたのがP−51B。ということです。
で、前作に続いてジャンク再生。フロッグのムスタングU。P−51としてアメリカが引き抜いた?TAの代替として供与されたP−51Aなんですが、所詮ジャンクでして、タイヤやらスピナーやらその他諸々、色々とパーツが欠落していた上、デカールも瀕死状態。んでもって、イタレリのムスタングT・TAのコンバチキットからデカールや機首下の機銃などを借用して、正調ムスタングTとして再生です。ので、主翼の爆弾架はカットです。高々度性能が良くなかった為、主に低空域で使用されたムスタングT。多くは主翼の7.7mm機銃2問を降し、コクピット後ろ左側にカメラを積んで戦術偵察機としも運用されたらしい。イタレリの取説には、その辺のパーツは入っておりませんが、後部風防を塗りつぶす塗装指示になっておりまして、このRM◎Dが実際、カメラを積んでいたかは定かではありませんが、一応それらしく加工してみましたぁ。
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