レシプロ戦闘機の最高傑作機のひとつと言えるP−51D。その軽量発展型で開発中だったP−51H(P−51Fの説もあり)を2機繋げたP−82。P−51の長大な航続距離を持ってしても、広大な太平洋戦域の爆撃機援護に不安を感じていたらしいアメリカ陸軍が1943年に提示した長距離援護戦闘機の要求に応えたのがコンベア社のターボジェットとターボプロップの複合動力のXP−81と、このXP−82。ターボプロップもターボジェットも、その時点ではまだ開発途上で、結果XP−82が採用されることに。ノースアメリカン社が独自で開発したという説もあるようですが、当時はP−51Dの生産と軽量化のF〜Jの開発で、かなり多忙な時期だったろうし、こんな、いってみれば「苦し紛れのゲテモノ」的な機体を独自で開発というのには少々疑問が残りますよねェ。ただ、B−29を援護したP−51のパイロットが「くたびれちゃってぇ!交代のパイロットが欲しいよなぁ・・・」なーんて独り言を聞いたノースアメリカンが、「確かにパイロット一人じゃあ、飛行機はもっても人間の方がもたん!」ということで2機をくっつけて複座にし、ひとりは交代パイロットとする、てなことで開発した。なーんてことも考えられるかも。さて実際はどうなんでしょうかぁ?
で、原型の初飛行が1945年6月16日。ヨーロッパでは既にドイツが降伏しており、太平洋戦域もその2ヵ月後には終結。大量キャンセルで僅か20機ほどが完成したP−82Bの一部が部隊配備されたようですが、その頃にはP−80などジェット機の目処が立ち始めP−82もこれまでかぁ!と思いきや、あの超重爆撃機B−36の実用化が間近となり、これを護衛できる航続距離のジェット機はおろかレシプロ機さえも、このP−82以外は存在しなかったようで、同年12月にP−82Eが100機発注されたそうだ。その後、全天候夜戦化されたF、Gなどは1950年に勃発した朝鮮戦争へ実戦参加。国連軍初の撃墜記録を残している。
ということで、キットはハセガワ・モノグラム。モノグラムの古い金型でパネルラインはやや太目の凸モールドですが、バリは少なく翼と機体の合わせに若干の隙間が出る他はそれほど問題ありません。ただ、ぷらもオヤジ/72のストックの保管の仕方に問題があるのか、翼、機体に変形、ソリが生じておりまして、修正しながらの組み立てでしたぁ。
デカールはハセガワオリジナルのニュージャージー、マクガイア基地のアメリカ空軍第52戦闘航空団。資料本等にはニューヨークはロングアイランドのミッチェル基地というのも有るんですが、52航空団がミッチェルにいたのは1947年6月から1949年10月で、その後1952年2月までマクガイアにいたようです。が、F−82Fの初飛行は1949年3月。52航空団に配備された時期によってはミッチェルにいた可能性もあるんですが、そこまで分かりませんでしたぁ!
派手派手のマーキングですが、劣化しておりましてパリパリ切れるのに加え、馴染みは今ひとつ。保管の仕方とデカール自体にも問題は有るでしょうが、やっぱりあんまり長くストックするもんではありませんねぇ!
で、こうして組み上げてみると結構でかい。P−51Dと比べると、外翼弦長や機体の長さ、機首周りのボリュームなど、スケールが違うんじゃぁないの?って感じですが、実測してみると間違いなく1/72。ストックしてるP−51Hを組んでいないのでP−51Dとのボリュームの差がどの位なのか実感としてわかりませんが、これは単純にP―51Hを2機繋げたというイメージからは、あまりにも違いすぎるような、全く別設計といっても良いくらいです。
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