本所の範囲は隅田川・竪川・横川・源森川の内で、明治11年本所区となり、昭和5年石原町・荒井町・番場町・若宮町・北新町・表町・松倉町・中ノ郷横川町・外手町の9町の各一部をあわせた町域を厩橋1〜4丁目とし、同22年墨田区所属、同41年新住居表示を実施した。その際「厩」の字が当用漢字になく、やむを得ず消滅していた「本所」をこれ幸いと命名した。

震災直後の本所付近、このあたりの住民は被服廠跡へ避難したが、火災に伴う旋風が発生しこの場所だけで44,000名の死者が出た。外出町の人たちも、永之介と満壽子の他生き残った者は皆無という。
西巣鴨(大塚)に久吉・艶子が分家したのは、震災の前年大正11年11月のことで、震災で本所が大打撃を受けたことを知った久吉は、16才になる長男貞吉を伴い、徒歩で本所や深川へ家族を探し求めた。震災の2日後の9月3日、奇跡的に満壽子を発見し、大塚の家に連れ帰ったという。