官武通紀 緒言
仙台藩士玉蟲左太夫が、文久2年(1862)より元治元年(1864)に至る3年間に起きた重要な出来事に関する公私の記録文書を、人物並びに事件などにより類纂したもので、さらにこれを文久壬戌、文久癸亥、元治甲子の3編に分けて記されている。
江戸幕府=徳川政権の威権が、名実共に地を掃えるのは、文久元治の交にある。別勅使大原重徳、三条実美両卿の関東下向(攘夷実行催促)、一橋慶喜、松下春嶽の政変進退、薩長土三藩の離合活動を始め、坂下門、東禅寺の凶変(英国領事館襲撃)、生麦事件、鹿児島湾下関の戦争(英国、4国連合艦隊の報復攻撃)、8月18日の政変(七卿落ち)、、長州藩士の京都襲来など、波瀾と趣味に富んだ活動が演じられたことは、まさにこの際を最とする。
本書は、広く各方面にわたってその資料を採録し、細大ほとんど漏らす所なく、かつまた既に散失した事実も伝えたものであるので、近世史の研究上欠くべからざる良書というべきである。
本書はこれまで未だ公刊されておらず、写本が世に存するものが極めて稀である。従って、その採録されている公私文書の如きも魯魚の誤(文字の間違い)が大変多い。いま孝明天皇紀および公武諸家の記録を参考して訂正を加えた。
玉蟲左太夫、名は茂誼、東海と号す。仙台の藩士である。夙に林大學頭(幕府の儒学者)の門に入って修学したが、安政6年(1859)、外国奉行新見豊前守正興が幕命により条約批准交換のため、米国に赴くに際して、請うてその随員となり、万延元年(1860)帰朝した。これ以後、専ら開国の論を唱えて国事に奔走した。後に抜擢されて養賢堂指南頭取(仙台藩藩校)、軍務局頭取となり、近習を兼ね、藩主伊達慶邦の信任を受ける。明治元年(1869)、朝廷が仙台藩に命じて会津・荘内の二藩を討伐させようとした時に、左太夫はいたくその不可を諍い、ついに藩論を決して付近の20余藩と同盟して王師(官軍)に対抗する。戦乱が平定するにおよんで、その罪に連座して、明治2年4月自刃を命ぜられる。時に40有余歳、著書は本書のほかに「航米日録」、「夷匪入港録」、「薩州記事」、「長州記事」などがあり、みな有用の書である。
本書の校訂に関しては文学士藤田福太郎氏を煩わせた、記して謝意を表す。
大正2年8月 国書刊行会識
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