研究者の紹介

菊池家や佐野屋について学会で研究していらっしゃる先生方です。これまでの研究過程を下記に記します。

入江宏先生 
宇都宮共和大学教授

著書
「栃木県の教育史」 思文閣出版 1986年1月
「近世庶民家訓の研究 「家」の経営と教育」 多賀出版 1996年2月
「教育と扶養」(日本家族史論集10)吉川弘文館 2003年2月

略歴
1962年3月 東京教育大学大学院教育学研究科博士課程単位取得満期退学
1962年4月 北海道学芸大学講師
1964年4月 北海道学芸大学助教授
1969年4月 宇都宮大学教育学部助教授
1975年4月 宇都宮大学教育学部教授
1989年4月 宇都宮大学教育学部長
1995年3月 宇都宮大学教育学部教授依願退職
1995年4月 日本女子大学人間社会学部教授
1996年4月 日本女子大学人間社会学部教育学科長
2000年3月 日本女子大学教授定年退職
2008年4月 宇都宮共和大学教授
      この間、東京大学、九州大学、筑波大学大学院講師(非常勤)を歴任

日本家族史論集10「教育と扶養より
三 近世商家における惣領教育 佐野屋孝兵家の記録をとおして
1.「佐孝」の」発展過程と家訓の位置
2.「創業」の祖より「守成」の主へ
3.「守成ニ出ル者」の教育



秋本典夫先生  
宇都宮大学名誉教授

著書
「北関東下野における封建権力と民衆」 山川出版社 1981年6月25日発行
「近世日光山史の研究」名著出版 1982年
「西郷隆盛」(維新勤皇遺文選書)地人書館 昭和19年

略歴
1915(大正4)年  山口県に生まれる
1940(昭和15)年 東京帝国大学国史学科卒業
         文部省維新史料編纂事務局に就職
1944(昭和19)年 宇都宮農林専門学校助教授就任
1950(昭和25)年 宇都宮大学学芸学部助教授就任
1968(昭和43)年 宇都宮大学教養部教授就任
1979(昭和54)年 3月定年退職 宇都宮大学名誉教授

論文
大橋訥庵と菊池教中の末路--坂下門事件の黒幕 宇都宮大学教養部研究報告 第1部
豪商家訓成立の基礎的研究--幕末期菊池教中の場合 宇都宮大学教養部研究報告 第1部
坂下門事件をめぐる下野の草莽志士--その史的性格と限界 宇都宮大学教育学部紀要 第1部  

北関東下野における封建権力と民衆より
第2章
第1節 幕末期における一町人請負新田地主 菊池教中の新田開発
 1.前期的商業資本としての佐野屋孝兵衛
 2.「佐孝」の転身をめぐる動き 教中と江戸店
 3.新田開発地主としての菊池介之介
結論
 封建権力は教中を自分の側に繰り込んだ。しかしそれは正確には「家来並」であって、それ以上の地位を認めることはできなかった。かかる権力に代わって、その地位を実質に相応しく評価しえたのは明治絶対主義である。明治絶対主義の基盤が地主側にありとすれば、新田開発地主としての教中に精神的にも、物質的にもその原型が形成されているもではなかろうか。彼が「身上を振ても掛る」との意気込を示した挙兵の策を、私はこのような角度から評価したいのである。


小池喜明先生 専修大学史学科教授 近世日本思想史

著書
「大橋訥庵 日本「商人国」批判と攘夷論」 ぺりかん社 1999年
「攘夷と伝統 その思想史的考察」ぺりかん社 1985年
「葉隠 武士と奉公」講談社 1999年

略歴

1939年 東京浅草に生まれる
東京大学大学院(倫理学専攻)修士課程卒業、横浜国立大学講師、昭和大学助教授を経て、東洋大学文学部教授
2009年4月 東洋大学名誉教授
佐藤温先生 東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程

論文

政治・商業・文治の交錯から義挙へ−大橋淡雅・大橋訥庵・菊池教中と『淡雅雑著』を中心に− 
                   一橋大学「書物・出版と社会変容」研究会2005年10月
豪商大橋淡雅における文事と時局 平成18年11月日本近世文学会秋季大会
『古筆了伴/安西雲煙 鑑定一件始末』解題と翻印 超域文化科学紀要 2008年
菊池教中の経世意識と『澹如詩稿』 平成21年5月日本近世文学会春季大会


服部之總先生 服部之總全集10 絶対主義の史的展開 福村出版 1974年
明治維新を絶対主義の歴史範疇に属するものと規定し論証した唯物史観の歴史学者。坂下事件をマニファクチュア段階における「階級」としてのブルジョアジーによる、革命的内戦蜂起の運動として捉えている。(幕末=マニュファクチュア時代論)
 安易な「下級武士」革命論に禍されている耳目にとって、私がこれまで機会あるごとに指摘しきったこの見解は、奇矯にすら映じるかもしれない。だが、坂下門事件で獄死した宇都宮の呉服問屋菊地教中(大橋訥庵の妻の弟)は「草莽」の草分け高山彦九郎とひとしく両毛機業から離しては理解されない。天誅組の兵站部となって資産を蕩尽し六角の獄屋で惨殺された淡路の土木業者古東領左衛門や生野挙兵で闘死した馬関の回船問屋白石廉作や、これらの人々は菊地兄弟とひとしくけっして単独に偶発的に参加したものではなく、組織の人、非合法的党人として刑死または内乱戦に戦死したのである。
・・・本来の徳川時代から日本の土壌の上に生えて来たブルジョアジー=日本の封建的な社会経済構成のなかから生まれて来たブルジョアジー、すなわちマニファクチュアの段階にいりこんでいるブルジョアジーは、あるいは酒屋であろうし、醤油屋であろうし、桐生足利の織物屋であろうし、またその織物を農家に賃労働の形でつくらせるところの問屋であろうし、またその織物業者に渋沢栄一のごとく藍を提供するところの藍玉の製造業者であろうし、そのような関東の織物業者のなかでも、たとえば宇都宮の木綿問屋の佐野屋は、江戸にも大きな店をもって越後屋と張り合うほどの太物屋、いわゆる坂下門事変で安藤対馬守を暗殺しようとした首謀者の大橋訥庵はこの佐野屋の女婿であり、菊池教中は佐野屋の当主であった。また坂本竜馬や清川八郎の家は酒屋であった。
・・・下級武士というものは実に動員された存在にすぎない。役に立つときは動員されて、役にたたなくなったら投出された存在である。これを動員した張本人は、まず第一に草莽の臣高山彦九郎と相場が決まっているが、彼だって両毛地方の織物業と関係がある。そういうようなマニファクチュアの段階のブルジョアジー、これが明治維新の指導力であるのである。


白石孝先生 慶應義塾大学商学部名誉教授

著書

「日本橋堀留 東京織物問屋史考」文眞社 平成6年11月
「日本橋街並み繁昌史」慶應義塾大学出版会 2003年9月
「日本橋街並み商業史」慶應義塾大学出版会 1999年10月

略歴

1921年 東京日本橋堀留の織物問屋に生まれる
1949年 慶應義塾大学経済学部卒業
1958年 同大学商学部教授
1975年 同大学商学部長などを歴任
1984年 杏林大学社会科学科学部長
1960年 慶應義塾大学名誉教授、杏林大学名誉教授

日本橋街並み商業史より
 元浜町では三河屋外山弥助という店は大変な老舗で、享保元年の創業という。綿布・絹布・モスリンを扱う店であったが、初代の出身は不明である。佐野屋菊地長四郎は三つの点で注目される店であった。第一は宇都宮より出店した呉服太物商で、この界隈の大店が後述するように近江系のものの多い中にあって、生っ粋の関東問屋であったこと。第二は、菊地は単なる呉服商いにとどまらず、日本橋・京橋を中心に八千坪余の土地を持つ資産家であったこと。第三は、日本製痲や東海銀行、東洋モスリンなど多くのいわゆる明治の近代的会社の出資者であり経営者となったことである。  


大町雅美先生 著書
「戊辰戦争」雄山閣
「草莽の系譜」三一書房 1970年7月
「維新変革期における在村的諸潮流」(共著)三一書房
「幕末の農民一揆」(共著)雄山閣
「栃木県の歴史」(共著)山川出版
「新井章吾」下野新聞社
「栃木県の百年」山川出版

論文
「民権運動期における栃木自由党員の経済的背景」歴史評論156,159号
「慶応三年における草莽隊の研究」日本歴史217,218号
「草莽隊と維新政府」地方史研究87号
 

略歴
1927年 栃木県に生まれる
1950年 東京高等師範学校(現筑波大学)西洋史科卒業
栃木高校をふりだしに教職に就き、宇都宮商業高校定時制、宇都宮女子高校教諭、壬生高等学校教頭、栃木県立図書館副館長、鹿沼高等学校校長、宇都宮東高等学校校長を歴任。その後作新学院大学経営学部教授に就き退官、現在に至る。

草莽の系譜より

第3章 草莽指導者とその矛盾

 一 草莽の義挙

 (1)藩士、山川浩に映じたもの
 (2)真岡木綿と草莽
   通商条約と真岡木綿
   通商条約と佐野屋の対策
   訥庵の朱子学者としての道

 二 佐野屋経営の転化と淡雅・教中

 (1)佐野屋と訥庵
   佐野屋経営と淡雅の絶頂
 (2)菊池教中の経営転向
   教中と土地所有
   豪商と封建領主との矛盾

 三 坂下門外の挙兵

 (1)和宮降嫁と関東の草莽
   斬夷か斬奸か
   輪王寺宮擁立案
 (2)訥庵のインテリ的矛盾
   訥庵の日和見主義
   訥庵予定の路線
 (3)水戸と宇都宮の関係
   水戸藩と宇都宮藩の対立
   坂下門外の変の独自性
 (4)草莽ブルジョアと草莽浪士
   教中はブレーンかパトロンか
   草莽ブルジョアと草莽浪士の対立
   金銭にからむ教中
遠藤進之助先生 著書・論文

 ○佐野屋の営業精神−坂下事件における首謀者の思想 昭和25年4月(草稿)
 ○関東真岡木綿をめぐる独占機構 昭和25年12月(宇都宮大学宝木史学会々報No.4)
 ○関東真岡木綿をめぐる独占機構−坂下事件の予備的考察−昭和26年1月(岩手史学研究No.7)
 ○坂下事件の展開(要旨) 昭和27年6月(歴史第四輯)
 ○坂下事件の背景−真岡木綿をめぐって− 昭和27年11月(日本歴史第54号)

略歴
 1927年5月 岩手県岩手郡寺田村大字帷子に生まれる
 1948年3月 岩手県師範学校本科を卒業、東北大学法文学部へ入学
 1951年3月 東北大学を卒業、大学院特別奨学生となり国史学を専攻
 1952年4月 聖和学園講師となる
 1955年4月 東北大学文学部東北文化研究室の設置に伴い同研究員となる。
 1955年8月 東北大学付属病院にて急逝す。享年28歳。

「近世農村社会史論」(吉川弘文館 昭和31年刊)

坂下事件の予備的考察 
 −関東真岡木綿をめぐって−

 はしがき
 一、問題の所在 
  1.研究史及びその批判
  2.坂下事件の主流
 二、開国の影響及び在方商人と問屋の暗躍
  1.尊攘運動の帰趨
   A.問題の摘出
   B.幕末外圧の性格
  2.貿易の影響と尊攘運動の激化
   A.国内社会経済の混乱
   B.文久年間に於ける綿花輸出の影響
 三、徳川時代関東綿業の発展
  1.特に真岡地方の綿業発達
   A.綿業奨励の性格
   B.綿業に於ける商業資本の支配
  2.綿業をめぐる三つの独占機構
  3.関東綿業の集中的表現としての足利機業
   A.縞木綿の生産形態
   B.木綿市場の「大衆性」
   C.桐生、足利の抗争
 四、結論