明治期 菊池家の人々
明治34年の写真より
菊池永之助(二代目) 明治4年(1872)〜明治39年(1907) 大橋陶庵四男で初代永之助菊池政隆の養子となった。正|、号は修軒。 この写真は30歳の頃になる。5年後に病没。 母は大橋訥庵と巻子の子、誠子。父陶庵は河田興で母は佐藤一斎の娘である。 |
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菊池久吉。明治9年(1877)〜昭和33年(1958) 字は正寛、栃木県下都賀郡小山町 岡部兵七の三男。 佐野屋の支配人を勤め、永之助の一人娘艶子と結婚して養子に入る。 大正11年11月12日、本所より北豊島郡西巣鴨大字宮仲2252に分家する。 久吉夫婦の分家については久吉自ら「春徳院様(満壽子)尤も大切の御人なり」と記している。 私の7歳の時に他界したので、おぼろげながらその印象は残っている。いつも和服を着ており、洋服姿は見たことがない。 あまり話をしたという記憶はなく、幼い子どもには近寄り難い雰囲気をもっていたように思う。 謡曲が得意で、質屋仲間にもの弟子を持っていたと聞く。 写真は久吉26歳の時で、このとき艶子は13歳、 |
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菊池艶子。明治20年(1888)〜昭和38年(1963) 政隆・満壽子の一人娘。政隆46才、満壽子38才、艶子が生まれたときには、跡取りとして陶庵の四男を養子に迎えていた。 大店の一人娘として、生花、茶の湯、琴、三味線、あらゆる稽古事を仕込まれて、稽古にかようのにも人力車で女中に付き添われて行ったという。明治41年、艶子21才。佐野屋の支配人を勤めていた岡部久吉と結婚、大正11年に分家して大塚へ出店するまで、本所外手町の本家で暮らす。 |