明治期 菊池家の人々

明治34年の写真より


菊池永之助(二代目) 明治4年(1872)〜明治39年(1907)
大橋陶庵四男で初代永之助菊池政隆の養子となった。正|、号は修軒。
この写真は30歳の頃になる。5年後に病没。
母は大橋訥庵と巻子の子、誠子。父陶庵は河田興で母は佐藤一斎の娘である。
明治34年 満壽子54才 明治27年 満壽子47才
菊池満壽子。嘉永3年(1850)〜大正14年(1825)
浅草区八幡町加川金兵衛長女。初代永之助が教中の娘久子を離縁した後、後妻として菊池家に嫁ぐ。
夫政隆との間に一子艶子を設ける。妹くら子は二代目永之助に嫁いでいる。
養子永之助が菊池の跡継ぎに決定しており、実子の艶子が後に産まれたけれども、これを分家させたことは「明治の女のいさぎよさと人間社会のけじめを守ったことで頭が下がる。(タミ談)」夫政隆の亡き後、養子永之助が家業を継ぐ中、先代の妻として艶子の行く末を案じて分家の手筈を整えたことは大変な努力を要したと推察される。
関東大震災で被災。「本所の家族を心配して父(久吉)と貞吉の二人は電車もバスもない東京の町を毎日徒歩で弁当持参で本所や深川を家族を探し求めて歩いた。9月3日に怪我をした祖母をやっと発見して西巣鴨の家に連れて帰り祖母は療養に努めた。あの広い焼け跡の中を良く探しあてたのは奇跡的である。其の時の怪我が原因か又ショックか、大正14年2月2日、祖母は71歳の生涯を娘の家で終えた。祖母は娘を分家させて別居して、約10ヶ月離れて住んだだけで、娘の家で生涯を終えた事は満足だったと思う。(タミ談)」
久吉26才 佐野屋支配人の頃 昭和30年ころ 昭和30年ころ 庭にて
菊池久吉。明治9年(1877)〜昭和33年(1958)
字は正寛、栃木県下都賀郡小山町 岡部兵七の三男。
佐野屋の支配人を勤め、永之助の一人娘艶子と結婚して養子に入る。
大正11年11月12日、本所より北豊島郡西巣鴨大字宮仲2252に分家する。
久吉夫婦の分家については久吉自ら「春徳院様(満壽子)尤も大切の御人なり」と記している。
私の7歳の時に他界したので、おぼろげながらその印象は残っている。いつも和服を着ており、洋服姿は見たことがない。
あまり話をしたという記憶はなく、幼い子どもには近寄り難い雰囲気をもっていたように思う。
謡曲が得意で、質屋仲間にもの弟子を持っていたと聞く。
写真は久吉26歳の時で、このとき艶子は13歳、
艶子13才 艶子8才 昭和30年ころ
菊池艶子。明治20年(1888)〜昭和38年(1963)
政隆・満壽子の一人娘。政隆46才、満壽子38才、艶子が生まれたときには、跡取りとして陶庵の四男を養子に迎えていた。
大店の一人娘として、生花、茶の湯、琴、三味線、あらゆる稽古事を仕込まれて、稽古にかようのにも人力車で女中に付き添われて行ったという。明治41年、艶子21才。佐野屋の支配人を勤めていた岡部久吉と結婚、大正11年に分家して大塚へ出店するまで、本所外手町の本家で暮らす。