加仁湯のおやじ 小松長久著「桃源郷 奥鬼怒」より
昔、はじめて鬼怒沼に行きついたのは大類市左衛門という地元の山男だったそうである。
玄関の戸を開けようとすると、家の中には、立派な法衣をまとったお坊さんが仏壇に向かって盛んに念仏を唱えている。妻も子も、親戚の人たちも大勢集まって、異様な光景である。何事だろうと思いきって戸を開いて中に入って「どうしたことだ」と問うてみると、家人が涙を流して「どうしたもこうしたもあるものか、あなたはこの世の人とは思えない。すでに死んだものと思い、家を出た日を命日として、今日は丸三年目、三回忌の追善供養を営んでいたのに、、、」と。これは陸の浦島太郎伝説そのものではないだろうか。鬼怒の中将姫=乙姫、鬼怒沼=竜宮城ということだ。
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鬼怒沼の機織姫 日本の伝説44「栃木の伝説」より(安西篤子著)
弥十は十七、川俣に住むいきのいい若ものである。 よく晴れた初夏のある朝、弥十は母親から用事を頼まれた。日光沢へ嫁に行っている姉のところで、先日、赤ん坊が生まれた。祝いに餅をついたので、届けてやってくれというのである。 弥十はこころよく承知して、さっそく餅の包みを背負い、家を出た。 山道をせっせと登ると、汗ばむほどである。ブナも白樺も楓も水楢も青々と繁って、その上をやわらかい風が渡る。駒鳥がしきりにさえずっている。草いきれでむせるようだ。鬼怒川の渓流が足もとを涼しげに流れて行く。 昼ごろに姉の家に着くと、姉も姉婿もたいそう喜んで、昼飯を食わしてくれた。 飯を済ませ、一休みして、弥十は姉の家を出た。 こんどは荷がないので、足も軽い。弥十はとぶように道を急いだ。 しかし、途中でふと立ち留った。もう、とっくに、下りにかかっていなければならないのに、道はなお山を登って行く。どうやら途中で、わきへ迷いこんでしまったらしい。 「まあ、いいや、まだ日は高い。そのうちに道がみつかるだろう」 川俣で生まれ育って、このあたりの地形を知り抜いている弥十は、べつに不安も感じなかった。 登っていくうちに、しだいに視界が開けた。それは、弥十も初めてみる風景だった。 ひろびろとした台地に、大きいの小さいの、幾十ともなく沼が点在する。しかも、いまは夏のはじめのことで、可憐な花が咲き乱れていた。 岩の間に群れ咲く、玉子の黄味みたいな花は岩車、羞じらう乙女のようにうつむいて咲く淡紅花は姫石楠花、釣鐘の形の岩鏡、見渡す限り、咲き競い、甘い匂いはあたりに満ち満ちて、弥十は思わず五体が痺れた。 「なんといい匂いだ。なんと美しい風景だ。この世の極楽とは、こういうところを言うのではあるまいか」 子供の頃から弥十は、鬼怒沼の話を聞かされていた高くそびえる鬼怒沼山の上には、たくさんの沼がある。そこには春から夏にかけて、きれいな花が咲いて、人を夢見心地に誘いこむ。しかし、鬼怒沼には、妖しいことがいろいろある。 むかし、沼に大蛇が住んでいた。あるとき、腕のいい猟師がこれを撃ち殺したために大洪水が起こり、麓の村々はたいそう迷惑を蒙った。 それからまた、沼には機織姫が住んでいる。姫が機を織ろうとしているとき、うっかり覗き見すると、おそろしい祟りがある。 弥十はこうした言い伝えをたくさん聞かされ、「だから、鬼怒沼へは、近寄ってはなんねえぞ」と、きつくいましめられていた。 「ここは、きっと、鬼怒沼なのだ」 心のうちで弥十は呟いた。が、少しもおそろしいとは思わなかった。花の甘い香に酔い、それに歩き疲れてもいたので、岩の上にごろりと横になった。岩は日に照らされて、ほどよくあたたまっている。弥十はいつか、うとうとと眠りこんでしまった。 日が翳って、うそ寒くなったのか、弥十はふと眼をさました。びっくりしてあたりを見回した。 「そうか、おらはここで眠ってしまったんだな」 その弥十の眼が、沼の上にいるあるものを捉えた。光りかがやくような美しい女である。黒髪は肩を越えて背になびき、身には水色の羅(うすもの)をまとっている。遠目のよく利く弥十は、羅の下のもり上がった乳房や、まるみを帯びた白い尻まで、すっかりみてとってしまった。 女はなにか歌を歌いながら、楽しげに機を織っていた。 トン、カラリ、トントン、カラリ 女の白い手が機の上をす早くかすめたと思うと、梭(ひ)が走り、筬(おさ)が動いた。 弥十は呆然と見惚れていた。 「天女さまだ、天女さまだ」 乾いた唇をなめなめ、夢中で呟いた。 ふっと、女の手がとまった。女は顔をあげて弥十を見た。たちまち女の顔に、怒りの色が走った。おそろしい眼をして弥十を睨んだかと思うと、さっと立ち上がった。 女の手から、空を切って、梭がとんできた。狙いはあやまたず、弥十は額をわられた。どっと血が溢れた。気がついたときには、もう、女の姿はどこにも見えなかった。 弥十がぼんやりと家へ戻ってきたのは、その日も暮れ切った時分だった。どこをどう歩いてきたのか、弥十の麻単衣はあちこち裂け、顔も手足も血と泥にまみれ、履物もなかった。それでいながら、どこで拾ったのか、飴色のみごとな梭を一つ、しっかりと握りしめていた。 あれほどいきのいい若ものだった弥十が、その日を境に、すっかり腑抜けになってしまった。眼はうつろで、ものも言わず、時折、口の中でなにか呟くばかりである。 ・・・あれは、鬼怒沼のほとりへ迷いこんで、機織姫を見たにちがいない。 村人はおそろしそうに噂した。 弥十はそれからまもなく、痩せ衰えて死んでしまった。 |
山の新伝説「鬼怒沼の絹姫伝説」ウェブリブログ「雲の上の散歩道」より
いつの頃からか、鬼怒川の上流にある山深い栗山の里に、 「鬼怒川をどこまでも遡ればこの世とは思えぬ仙境があり、美しい姫君が住んでいる」 と言う言い伝えがありました。 勇気ある栗山の若者の仲間が仙境と姫君を尋ねて鬼怒川を遡って行きましたが、その都度山の険しさに阻まれ、源流にまで達することができませんでした。また、別の仲間は中禅寺湖の湖岸から戦場ヶ原を北に向かい、金精峠を登り温泉岳を過ぎたものの、薄暗い原始の森の中に迷い込んでしまい、恐怖に駆られて口々に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることしかできませんでした。それでも何日もかかってやっと戦場ヶ原に戻ることができました。 そのうち山での恐ろしい話が若者に広がり、仙境探検に出かける者はいなくなりました。行く者が一人もいなくなれば、俺が行くと言う者が現れるものです。当然一緒に行こうと言う者は誰もおらず、一人で出かけることになります。 村でも勇気と知恵があることで評判の若者がついに仙境探検に出かけると言い出しました。若者は、親や兄弟の引き止めるのも聞かず、トチ餅と斧とつり道具を持って仙境へ向かいました。金精峠、温泉岳、念仏平、根名草山をなんとか通り過ぎ、鬼怒川の最上流部に出ました。 ここは鬼怒川を遡行したグループも到達した所ですが、この先は山が切り立っており、どこを行けば仙境にたどり着けるのか、分からなかったのです。若者はなにやら無言で念じながら、最も勾配のきつい山腹を登り始めました。 そして、悪戦苦闘すること、数時間ついに目の前が明るく開けました。あふれるような緑の中に青い空と白い雲を写した沼が無数にありました。そして沼の周りには赤や黄色などの珍しい草花が咲いていました。今までに見たことの無い夢のような美しさです。若者が景色に見とれていますと、なにやら「シュッ、シュッ、トン、トン」と音が聞こえてきました。音のほうに目を転じると、涼しげな建物があり、なんと若い天女のような娘が機を織っているではありませんか。 若者は村で言い伝えられていた仙境と姫君に出会えたことを確信しました。娘は、若者が食い入るように見ているのを知ってか知らずか、機を織り続けました。若者はわれを忘れて、美しい娘を瞬き一つすることもなく、見続けていました。 三日後、娘が立ち上がって外に顔を向けたとき、若者は、娘と織物のあまりの美しさに「あっ」と驚きの声を発しました。 次の瞬間、娘はもちろんのこと、建物も跡形も無く消えていました。 われに帰った若者の背筋に冷たいものが走りました。若者は、ぶるぶる震えながら、後ろも見ずに山の斜面を駆け下りました。 つりに来たときの記憶を頼りに、栗山の里にやっとの思いで帰り着くことができました。懐かしい我が家の前に立つと、なにやら仏事が執り行われている様子でありました。留守中に若者の家に不幸があったのでしょうか。心配になった若者は、入り口で 「お父う、お母あ、今戻ったよ。」 と声をかけますと、奥から人々が出てきて、 「お前、無事で戻れたのか、良かった、良かった。」 と涙を流すばかりでありました。 この日、山に入ったまま戻らなかった若者の三回忌の法事が執り行われていたのです。 この時以来、鬼怒沼の絹姫に出会った者は一人もいないそうです。また、この若者の名前は残念ながら伝わっておりません。 〔筆者注〕 この話は、地名説話のひとつと考えられる。 一つは金精峠の北にある「念仏平についてであり、二つは「鬼怒」の語源についてである。 「念仏平」は特に説明するまでも無いが、「鬼怒」については、機おりの「絹姫」の物語から同じ音である「鬼怒」に結びつけ、鬼怒川などの「鬼怒」の謂れとするものであるが、これは文字から来る語呂合わせに過ぎない。古くは「上野の国」と「下野の国」は、合わせて「毛野(けの)の国」と呼ばれていたが、「けの」⇒「けぬ」⇒「きぬ」と変化し、「鬼怒」の文字が当てられた。なお、「毛野」は「木の生い茂った野」であり、未開拓の地の意味と考えられる。 この話は、「山の浦島太郎物語」でもある。いずれの話も、異界における時間が人間世界の時間より遅れるところに共通点がある。逆に言えば、異界から人間世界に戻ると、時間はずっと先に進んでいたのである。なにやら時間や空間は絶対ではなく、伸び縮みすると言う相対性理論の話のようである。 |
鬼怒沼の機織姫 「まんが日本昔ばなし」より
平成4年7月25日テレビ朝日系列で放映された。子供用にデフォルメされた物語では、主人公のやじゅうは生き残り、機織姫がやじゅうに滅ぼされるという脚色になっている。子供番組にしては、機織姫の姿がかなりセクシーである。
昔日光の奥の川俣という所に「やじゅう」という十七になる若者が住んでいた。 |
岩影から声のする方を見ると、やじゅうの目に機を織る娘の姿が映った。それは光り輝くような美しい娘であった。 |
やじゅうは「天女様・・・」と言って娘の肩に手をかけた。 |
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娘は逃げるやじゅうを見ながら「この沼に入った者は帰すわけにはいかぬ」と言って機織り機の杼(ひ)を投げ付けた。 |
鬼怒沼の怪 日向野徳久編 日本の民話 栃木篇第二集より
[塩谷郡] 沼の主 上州(群馬県)小川村のある猟師が、獲物を追いながらいつのまにか山道を越えて、鬼怒川の水源である鬼怒沼へ出てしまいました。 その時、うっそうとした密林にかこまれている沼から、何か不気味なうなり声がおこったので、びっくりしてそちらを見ると、沼の中ほどから、眼をらんらんとかがやかした大蛇があらわれ、かま首をもち上げてこちらに向かって来ます。 猟師は夢中で鉄砲を向け、引き金を引きました。 みごと手ごたえあって、大蛇は水面にのたうちまわっていましたが、さえわたっていた名月はたちまち黒雲におおわれ、雷鳴とどろき、雨がはげしく降ってきて、満々と水をたたえていた沼の一部はくずれ落ち、下流は大洪水となってしまいました。 これから後、鬼怒沼の水は涸れてしまい、大沼の中に四十八沼をその名残りにとどめるだけになってしまいました。 これが享保八年(1723)八月の五十里洪水です。 猟師はやっと家へにげ帰ることができましたが、これがもとで、狂い死にしてしまいました。 |
鬼怒沼の乙女 日向野徳久編 日本の民話 栃木篇第二集より
ある年の初夏のころ、ひとりの若者が山しごとに出て道に迷い、この鬼怒沼のほとりへ出てしまいました。 ちょうど、美しい花があまい香りをただよわせて一面に咲きほこっていましたが、どこからともなく、はたおりの音が聞こえてきました。 鬼怒沼のほとりには、美しいお姫様が住んでいて、はたを織っているそうだ、といういいつたえはあるものの、まだ誰も見たことはありません。 その音は花の香りの中に、うっとりとするようなふしぎな調べとなって若者の胸にひびいてきて、夢見る心地で聞きほれていました。 その時、沼の奥のほうに、天女のような美しい女があらわれ、沼の上をすべるようにこちらへ近づいて来ましたが、花の中にたたずむ若者の姿を見ると、さっと怒りをあらわし、その手に持った梭を若者になげつけて姿を消しました。 若者はそのまま気を失ってしまいましたが、やっと正気づいて家に帰ったのは、それから三日の後だったそうです。 若者はそれからかわいそうに気が狂い、十日ほどして死んでしまいました。 (註 梭・・・はた織りの道具の部品、横糸を巻いたくだがはいっており、たて糸の間に右または左から入れて、たて、よこの糸を組んで織るのに使用する。) |
平家落人伝説 女夫渕地名の由来
「平家でない者は人でない」と一門の栄と奢りを極めた平家でしたが、 壇の浦の戦い(1185年)で破れ、散り散りになって、源氏の追ってを 逃れ山の奥へと逃げのびていきました。 その頃、中将姫という、 高貴な人が居り、姫は片時も忘れることのできない中納言が奥州路を さして落ちていったと聞き、その後を追って同じく奥州路に向かいま した。 当然、中将姫も追われる身のつらさ、言葉に表せないような 苦しみを重ね、塩原路を過ぎ、鬼怒川に沿ってただ一人登ってきまし た。 戦禍の中で平家の公達の多くは戦死しましたが、中納言は姫の 安否を求めて鬼怒川の奥へ奥へと進んでいきました。 群馬県境に近 い平五郎山引馬峠を越え、たいへん苦労して下ってきたので、その名 を「苦労沢」と名付けられました。 これは何時しか、黒沢に変わり ました。 中将姫は川俣の奥の洗坂沢付近に身をひそめ、神仏にお互 いの無事を祈願しつつ、なお、中納言を探し求めて歩きました。 手 白沢温泉に登る途中「合の山」と云う地名がありますが、この一説、 愛の山からつけられたといわれています。 鬼怒沼山より源を発して います、鬼怒川をはさんで、右岸に中将姫、左岸に中納言が会うすべ もなく、厳しい大自然の訓練を受けながら互いを探しておりました。 しかし、長い年月の苦労が報われて、ある日鬼怒川を過ぎ黒沢と本 流の合流地点である「三音渕」のほとりで、中将姫と中納言は幾久ぶ りに再会し、喜び合いました。 これから後、「三音渕」は「女夫渕 」となり、中納言は姫の手を取り、鬼怒沼を目指して行ったのです。 これから先は、鬼怒沼につながる伝説になります。 七百有余年の 月日が流れた今日も、清らかな瀬音に立ち昇る湯の香と共に「女夫渕 」の伝説は語り伝えられているということです。 |
実在した中将姫 藤原氏の中将内侍
中将姫伝説と言えば、當麻寺曼荼羅を織り上げた中将姫の伝説である。デフォルメされて折口信夫の「死者の書」となって広く知られている。 時代は奈良時代、聖武天皇の天平5年、藤原豊成の娘に生まれたのが藤原南家の郎女、後の三位中将内侍である。曾祖母が藤原不比等で、祖母武智麻呂が藤原南家の始祖になる。 |
荷葉の路 作:鏑木恵梨 中将姫伝説を下敷きにネット小説連載中
実在した中将姫2 平安時代(1015年頃)
当子内親王の乳母、中将内侍。 第67代三条天皇の第一皇女当子内親王は斎宮に卜定されて16歳になって斎宮を退下する。天皇鍾愛の皇女だったが、藤原道雅が皇女と密通しているというウワサが立った。父天皇は激怒して、藤原道雅を勅勘、二人の手引きをした中将内侍を追放した。内親王は道雅との仲を引き裂かれ、悲しみのうちに落飾し、6年後に23歳の若さで生涯を閉じる。 今はただ思ひ絶えなんとばかりを人づてならで言ふよしもがな 藤原道雅が内親王と別れた後に贈った歌が後拾遺集に採用され、百人一首にも選ばれている。 憎からぬ人の着せけむ濡れ衣は思ひにあへず今乾きなむ 中将内侍(後選和歌集 恋五657 中将内侍が追放の末に栗山村に至って女夫淵で恋人と再会するという物語もできそうだが、平家落人伝説が背景とすると、時代が1000年早まってしまう。また、乳母であって姫とは呼びがたい。 |