桑島新田と吉良八郎の碑

碑文

吉良君八郎之碑     東京 陶庵大橋正寿
君諱貞篤波多氏本姓吉良氏称八郎常陸谷田部藩人也考諱某
称吉郎兵衛為郡奉行食禄二百石母長谷川氏君年十六失怙襲
家廿二為郡奉行後有故脱籍使嫡子武寛承家自復本姓時有真
岡人二宮金次郎者以興民利有名君就学有年 幕府擢君為真
岡県令属吏君概然以賑貧撫民為志曾家叔菊池教中嘗憂其藩
宇都宮侯所領地多荒頓有捐産以開墾之之志諸侯侯允之乃就
岡本桑島二村開田若干町而以桑島村與真岡縣所宰相接教中
與君締交百事頼為君之勤勉従事立定制設教禁課耕種通民利
於是荒廃盡開人民安業明治三年秋鬼怒川暴漲奔潰横溢蕩田
没盧君徒尸桑島村夙夜奔走厳堤防開水利水患盡除民徳之同
國芳賀郡物井村蓮乗院釋追號潤身院義賢良忠明治維新之際
君復帰舊藩稱波多氏改名以一君配廣瀬氏擧四男三女嫡子八
太郎夭二子武寛嗣長女適土浦藩関口氏二女適谷貝村農某氏
餘皆夭明治十一年戊寅七月實値君七周忌辰於是教中男経政
恐君勤労之績久而湮滅又憂其墓距桑島村数里不便時節展墓
欲建石于其盧側以示永遠請文于余余之按状述概如此
明治十二年三月      得堂菊池経政書及篆額


吉良八郎之碑
【宇都宮市指定有形文化財】
(昭和42年3月25日指定)
 吉良八郎は文化10年(1813)常陸国谷田部(現・茨城県谷田部町に生まれ、郡奉行を勤めた茂木藩士であったが、やがて二宮尊徳に直接仕えた。尊徳の死後、八郎は菊池教中から鬼怒川沿岸の開拓をまかされた。この碑は文久2年(1862)八郎が桑島村に129町歩の開拓を成功させ、さらに明治3年(1870)の鬼怒川洪水後の田畑復興にも尽力した功績たたえ、八郎の七回忌にあたる明治12年(1879)3月に建てられたものである。


Kira Hachiro Hi
[Monument of Hachiro Kira]
cultural asset designated by the City on March 25th,1967

Hachiro Kira wa a clansman of the Motegi Clan born in Yatabe.Hitachi Province[Now Ytabe Town,Ibaragi Prefecture],in Bunka10[1813],who was first a county magistrate and then become a sub-ordinate of Sontoku Ninomiya.After Ninomiya's death,he was entrusted the reclamation of the districts along the Kinu River from Kyochu Kikuchi.
This monument was erected in March,Meiji 12[1879],the sixth aniversary month of Kira's death,in order to praise his contributions to reclamation of the Kuwajima Village in Bunkyu 2[1862] convering an erea of 129 cho [316 acres].and rehabilitation of the cultivated fields in Meiji 3[1870] after the terrible flood of the Kinu River.


二宮堰

栃木県宇都宮市徳次郎町田川

安政2年(1855)より、徳次郎六郷用水から宝木地区まで用水を延長する工事が二宮尊徳の監督により着手された。翌安政3年、尊徳が70歳で他界したため一時工事が中断したが、吉良八郎の監督によって工事が再開されて、安政6年(1859)6月、宝木用水が完成した。この宝木用水の取水堰を二宮堰と呼んでいる。現在でも当時の遺構を保存しており、親水公園として栃木県土木遺産に指定されている。


真岡市史 第7巻 近世通史編より

 吉良八郎はもと波多晁八郎と称し、200石取の茂木藩士で、(二宮)金次郎の指導下で中村勧農衛とともに茂木仕法
を進行した幹部であったが、天保13年(1842)に仕法償還金をめぐる事件に関与し、突然藩主より永の暇を申し渡され浪人となった。その後、金次郎の推薦で常陸国青木村の名主館野勘右衛門家に妻子とともに寓居し、青木村の仕法に精励した。弘化2年(1845)3月、姓を波多より吉良と改め吉良八郎と称して金次郎専属の随身者となった。同4年には山内代官の手付に就任した金次郎とともに東郷の神宮寺に移住し、福住正兄と二人で帳簿方を担当した。翌年金次郎に随い東郷陣屋に移り、嘉永4年(1851)には真岡代官手付となり、七両二人扶持を給せられた。翌年、青木村より妻や娘を呼び寄せ、やっと世間並の家庭生活に入った。
 その後、水争いが絶えない宇都宮の石那田堰の構築、徳次郎用水の開通などでは、金次郎の手足となって活躍した。嘉永6年以降、金次郎は日光奉行手付として日光神領の復興仕法に従事することになったので、八郎もこれに随行し日光領内の廻村や、任地の真岡と日光領を往来する生活となった。同年7月には相馬藩士富田高慶に嫁した金次郎の独り娘文子が東郷陣屋で亡くなったが、金次郎は日光にとどまったため、八郎は委任されて金次郎の子弥太郎尊行とともに葬儀の一切をとりしきっている。
 安政2年(1855)に金次郎一家が今市に移転した後も八郎は東郷陣屋にとどまり、真岡・棹ケ島村・花田村・桜町領・下館藩領など各地の仕法に携わり、手際よく仕法業務を処理し、金次郎の厚い信頼を得ていた。八郎は非常な愛酒家で、門弟に対し塾則として禁酒させていた金次郎も、八郎にだけは毎晩一合の晩酌を許していたという。
 安政3年に金次郎が今市で没した後、八郎は荒地開発の手腕を買われ、宇都宮の木綿問屋佐野屋の主人
菊地教中から鬼怒川沿岸の荒地の大開田を委託された。教中は坂下門の変に連座した豪商である。この事業は七か年の時日を要し、文久2年(1862)に完了したが、宇都宮藩領の岡本・桑島両村280町の開田と、94戸の農家新設がなされた。八郎はこのうち桑島一村129町歩を開田した。桑島村では明治12年(1879)3月、「吉良八郎君の碑」を建立してその功績を称えている。
 慶応4年(1868)に戊辰戦争が起こり、同年5月、真岡陣屋は新政府軍(佐賀・土佐両班兵)に急襲され焼失したが、陣屋にいた八郎は馬で磯山方面へ逃れ、難を免れた。しかし政治犯として追われる身となり、各地を転々とした。明治3年ころ再び姿を見せ、水害を受け苦しんでいた桑島新田復興に最後の力えお尽し、同所で明治5年春、64歳で世を去った。その遺体は師金次郎の菩提寺である芳賀郡物井村の蓮城院に葬られたのである。

仕法 物事を行う方法。報徳仕法:二宮尊徳によって説かれた、節約・貯蓄を中心とする農民の生活指導などを通じて農業経営の立て直しと農村復興をはかる方法。 
手付 江戸幕府の直轄領(真岡、日光)に置かれた代官所(陣屋)で、代官の下に手代として、通常幕臣10名が任命され代官を補佐した。代官所にはこのほか、手代(士分)、中間、足軽などが常駐したいた。