石町(こくちょう)時の鐘 十思公園内 東京都指定文化財 | |
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江戸時代に時を告げる鐘が9か所にあったという。 浅草寺、本所横川町、上野、芝切通、市谷八幡、目白不動、赤坂田町成満寺、四谷天竜寺、そして石町(日本橋本石(ほんこく)町=現日本橋室町)であり、この中でも石町時の鐘が最も古い鐘である。 花の雲 鐘は上野か 浅草か 松尾芭蕉 当時の江戸市民は時の鐘によって一日の時刻を知る。この句からは咲き誇る桜の風情が感じられるが、石町の時の鐘には、これとは全く違ったエピソードが残されている。 もともとは江戸城内西の丸にあったものが、将軍御座に近く差し障りがあるという理由で、城内では鐘に代わって太鼓が用いられるようになり、この鐘楼が日本橋に移された。鐘そのものは西の丸に残されたが、これを鋳型に鋳造したもので、3度の火災に遭いそのたびに改鋳されたという。 石町の 鐘はオランダまで 聞こえ これは当時の川柳だが、辻源七が撞く鐘の音が届く範囲は、江戸の中心で一番の繁華街であった日本橋をはじめ、東は隅田川、西は麹町、南は浜松町、北は本郷あたりまで、と今日では考えられないくらい広範囲にわたっていた。オランダというのはオーバーだが、これは近くに長崎屋があったところから出た洒落である。 慈悲の鐘 伝馬町牢屋敷では、この鐘を合図に首が刎ねられたのだそうで、このため処刑者が出る日と聞くと、鐘突番はわざと数分鐘を打つことを遅らせて少しの時間でも延命を諮ったといわれ、その情を知る近在の住民は「慈悲の鐘」とも呼んだそうである。 |
城内で鐘撞役をしていた辻源七が、1626年日本橋本石町3丁目に200坪の土地を拝領し鐘撞堂を建て、新たに鐘を鋳造し「時の鐘」を知らせる仕事を開始した。これが江戸で最初の「時の鐘」とされている。 辻源七が撞く鐘の音が届く範囲は、江戸の中心で一番の繁華街であった日本橋をはじめ、東は隅田川、西は麹町、南は浜松町、北は本郷あたりまで、と今日では考えられないくらい広範囲にわたっていた。その距離、約400町あまりで、家持1軒につき1ヶ月4文つつ、12月に48文を受け取っている。江戸学辞典によれば「元文3年(1738)の記録で、源七の収入は年間約90両であり、支出の内必要経費は撞木・時計磨料・常香・鐘撞人給金(5人分)・油・飯米・味噌・薪・炭代として41両ほどが計上されている」とある。ここで注目したいのが、時計磨料と常香という項目が記されていることである。正確な時間を知るために、時計と時香炉も合わせ使っていたのが判る。時香炉は常香盤の香の燃える道筋に時間ごとの印をつけたもので、寺院などでは古くから使われてきている。17世紀の中頃に江戸城や石町で時計が使われていたことは当時の最先端技術であり、いち早く不定時法の和時計が考案されていたことになる。 石町の鐘は3度の火災に遭い破損したが、そのたびに江戸城西の丸の鐘を借り出し、改鋳が終わるとその鐘を戻した。その後正保2年(1645)の改鋳を経、宝永8年(1712)に鋳造されたのが現在の宝永時鐘である。 |
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2008.10.26 |