鞍掛橋

日本橋川から別れて東へ流れる竜閑川(りゅうかんがわ)が亀井町=今の岩本町で南に折れて浜町川入堀へに繋がるあたりに罹っていた橋が蔵掛橋である。昭和23年から25年にかけて埋め立てられたため、現在は交差点名だけにその面影を留めている。
鞍掛橋は竜閑川(りゅうかんがわ)という掘割に掛けられた橋で、今は川が埋め立てられて交差点の名前だけが残っている。鞍掛橋交差点は江戸通り(国道6号線)とみどり通りの交差点で南西を小伝馬町から本石町へ、北東を馬喰町、浅草橋へと延びている。昔は奥州街道のメインストリートで、旅人宿が多く、旅人の往来はなはだ賑やかな場所であった。そこでは地方商人が年に何度かやってきて、仕入れや江戸見物に滞在し、また宿には様々な問屋の番藤・手代が「宿屋廻り」にやって来て、そこに泊っている得意先の客と商談するのが習わしであった。また、「公事宿」という訴訟などのために宿泊する宿があり、宿には訴状を作成する司書のような役目の人も常駐し、公事人が役所へ出頭するときは宿の主人が付き添ったり、惣代と称する代理人が出頭することもあったという。

馬喰町大道彙図 葛飾北斎
公事宿の中を描いた図である。
かつては奥州往還の旅人で賑わったの本石町通りは、千代田区と中央区との境界線になっている。旅人宿や小間物店が並んでいた町はビジネス街に変った。
鞍掛橋交差点の北側に5m四方の植え込みがある。これが竜閑川入堀跡。竜閑川は日本橋川より千代田区と中央区の区界に沿って北東に向かい、東神田付近から直角に折れ、浜町川を経て箱崎川、隅田川へと抜ける人口の堀であった。明治の堀割の際に神田川への流路も掘割されている。
横断歩道のあたりに川が通っていたのであろう。

鞍掛橋は大正15年6月から昭和2年8月まで架橋されていた。竜閑川は江戸時代1658年に掘割され、その後一度埋め立てられたが、明治16(1883)年に再び掘割された。その後太平洋戦争の残土処理のため昭和23(1948)年から再び埋め立てが始められ、昭和25(1950)年には完全に姿を消した。上のは「帝都復興史 第二巻」昭和5年刊に掲載された蔵掛橋の写真である。
みどり通りから鞍掛橋交差点を望むと横断歩道の先に5m四方の植え込みが見える。これが蔵掛橋の名残りで、その先はビルに突き当っている。
鞍掛橋付近の古地図(嘉永3年1850)
当時は江戸通りの南側(図では左側)に呉服繊維問屋が集中していた。昔の土蔵造りの問屋が現在ではビルに変わったが、今でも繊維商社が多い。
江戸時代は本町通りがメインストリートであった。現在の町割りと異なり江戸の町割りは大通をはさんで両側が一つの町を作る「両側町」となっている。本町通りを見ると、北から大伝馬町2丁目、通旅篭町、通油町と続きみどり橋に達している。そして本町通りをはさんで町割りがされている様子が見える。町名の頭に「通」という字が付くのは、そのとおりが幹線道路や賑やかな通りであったことを示している。
明治になって馬車鉄道が本石町通り(江戸通り)に敷設されると、往来の中心は本町通りから本石町通りへと移って行く。

鞍掛橋交差点からみどり通りを望む。通りの左側が浜町川入堀であった。
みどり通りを進むと、本町通りを越え、その先織物中央通りとの交差点付近に木綿太物問屋佐野屋があった。
このあたりは、入堀があった形跡を全く留めていない。


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鞍掛橋交差点からみどり通り方面。みどり通りの左側は竜閑川で数十m進んだところで浜町川入堀となり、元濱町の佐野屋前を流れ、久松町、濱町を通って大川=隅田川に合流する。

2008.10.26