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![]() 綿花 |
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佐野屋は18世紀〜19世紀に、多くの分家、別家を派生しつつ発展して行った。 |
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菊池の系図を調べて行く過程で、真岡代吉の存在が謎であった。 代吉は11代治衛門(栄親〜民子の弟)の娘、志津と縁組して菊池の養子に入っているが、出自の記録、生年没年、戒名などの記録が系図には全く記載がない。 代吉の妻、志津の墓は谷中天龍院にあるのだが、何故代吉と別に葬られているのか?真岡に生活の基盤を持っていた志津が離縁されたという記録もないのに、何故に晩年東京の蠣殻町に寓居し、そこで生涯を終えることになったのか? これらの疑問を解く鍵が栃木県の真岡にある。 佐治店を経営する栄親は、その娘志津に養子代吉を迎えた。 代吉に真岡出店させるということで、佐孝(淡雅)と連係した佐野屋の商業戦略が大きく飛躍することになる。 天保12年(1841)幕府は、問屋・仲間・組合などと称することの禁止。問屋を通さない取引勝手次第の旨を触れた。いわゆる株仲間解散令である。これにより、真岡晒は問屋以外の者に自由に売買できるようになった。 この問屋仲間解散令が出た10年後の嘉永4年(1851)3月、幕府は改めて問屋仲間再興を令した。宇都宮に本店のある佐野屋長四郎は、その仕入れ高の多いことから元組加入が認められ、白子組(江戸大伝馬町組と並ぶ木綿問屋組合、柏屋、大丸屋、越後屋、白木屋など)に加わっている。さらに佐野屋は真岡の買次小宅喜兵衛と共同で営業し、喜兵衛が休業した弘化2年(1845)以降は佐野屋代吉の名で冥加永を上納して買次業を続けていた。 |
真岡市は宇都宮の東南15Kmほどに位置する。 東は結城市をはさんで小山市へ到り、西は水戸に通じている。 宇都宮で古着の売買を家業としていた菊池家は真岡において晒木綿の産業が発達するや、その売買に参入するようになった。 当時の木綿は、 生産者→小仲買→仲買→買次→問屋 という流通経路で取引されていた。 小仲買 数反〜数百反 仲買 数百反〜数千反 買次 数千反〜数万反 問屋 商品が上位に行くにつれ集積されて、最終的に江戸の大手太物問屋(白木屋、三井越後屋など)へ納められて行く仕組みであった。 代吉はこの流通過程の買次として、佐治店から真岡へ送りこまれ荒町に出店した。そして、極めて閉鎖的であった江戸の問屋仲間が経済自由化の流れを受けて、一時的に独占から解放された天保年間(天保改革〜株仲間解散)に、佐野屋孝兵衛(佐孝〜淡雅)は太物問屋の一角に参入することを得た。その後、嘉永年間に株仲間が再興されると、佐孝は真岡木綿を一手に引き受ける豪商に発展していった。 |
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岡部記念館 金鈴荘 栃木県指定有形文化財 栃木県真岡市荒町2162 | 金鈴荘ホームページへ | |
金鈴荘は、真岡木綿問屋として栄えた、岡部呉服店の2代目岡部久四郎氏が、
明治初期に建築材料などを多年にわたって集め、大工・指物師は出入りの職人
を3年間東京で修行させ10年余の歳月を費やし建築したものです。 床の間部分は、全て紫檀(したん)・黒檀(こくたん)・鉄刃木(たがやさん)
の唐木が使用されています。襖類も紫檀・黒檀・鉄刃木の枠で、襖紙はきぬ下地に金箔が五層施したものです。
内部にある書画骨董類は、この地方にゆかりの深い作者のものが多く、文化財
としても価値のあるもの数多くあります。 真岡市近世百年の歴史・文化遺産として後世に引き継ぐため、岡部記念館
「金鈴荘」として保存しています。 館内の床の間には、高久靄高フ掛軸も展示され、菊池教中と交流のあった県六石による天袋の襖絵もそのまま展示されている。 岡部家に縁のある方だろうか、館の案内は話好きのおばあさんがいて、いろいろ説明をしてくれる。そして、包みから一葉の写真を取り出して、見せてくれた。岡部家のお嬢様でこの館の一室でピアノを練習している写真だった。 |
![]() 真岡市物産会館の奥手に門がある |
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![]() 金鈴荘玄関より外観 |
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![]() 金鈴荘庭園より縁側を望む |
岡部家について | |
この岡部家は、初代当主松兵衛(寛政2(1790)〜嘉永3(1850))が江戸末期に宇都宮の鈴木呉服店から暖簾分けし、現在の荒町に鈴木屋岡部呉服店を開店。その後、二代目、三代目と商売に成功し、栃木県下でも1,2の多額納税者であった。 鈴木家、岡部家といえば当家とも関係が深い。 系図に登場するのは岡部太兵衛と鈴木久右衛門、鹿沼鈴木家だが、真岡の岡部氏と関係があるかどうかは今後の調査としたい。同業で地域も同じ、時代も共通していることから、何らかの関係があるのではないだろうか。 |
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![]() 真岡木綿のコースター(250円) 真岡市物産会館で売っています。 |
真岡における19世紀の質屋業 | |
質屋で預かる主な物品 | 1.衣類 2.金物類 3.穀物俵物類 |
質屋の利子 | 衣類 金1分につき銭26文、銭100文につき2文(2%) 金物道具類 金1分につき36文、銭100文につき3文(3%) 穀物俵物類 金1分につき40文、銭100文につき3文(3%) 金勘定と銭勘定で利子率が違う。 |
質流れ期間 | 衣類 10か月 金物道具類 8か月 穀物俵物 5か月 |
質屋の取り決め |
期限を過ぎると断りなしに流すことになっていた。 葵の紋付や宝物・什物などは預からない。 質置主と保証人の両う印がない品はたとえ隣家の物であっても引き受けない。 火事や盗難にあった場合は預け主と質屋の両損とする。 鼠が食ったり、腐れが出た場合は預け主損害とする。 |
送り質屋 | 質屋に品物が持ち込まれても、資金がなければ貸し付けすることができないため、規模の小さい質屋は送り質屋となった。これは元質屋から資金の融通をうけて営業し、口銭を受け取るもので、文政12年(1829)の塚田兵衛門の書上げによれば、金10両につき2分5厘送り質の者が受け取ることになっていた。 これはおそらく銀で2分5厘の日歩ということであろう。金1両は銀60匁であるから、10両では銀600匁となり、それに対し2分5厘は0.04%余、年間で15%ほどの比率となる。 塚田兵衛門は1か年平均金1094両、銭1608貫文の質取高があったが、そのうち手取り分は金375両、銭628貫文であり、他は真岡町と周辺15か村の送り質屋19人の扱ったものであった。 送り質は現代の質屋でも親質という名称で最近まで行われていた。最近ではほとんどなくなったようであるが、姻戚関係や暖簾分けの多い質屋業界で、資金のある質屋が親質となっていたという話は昭和時代に聞いたことがある。 |
資料 真岡市史 第7巻 近世通史編より |
to be continued