淡雅のふるさと小山

淡雅の生家大橋家
   大橋訥庵先生肖像 訥庵文詩鈔所載
淡雅諱は知良、字は温卿、淡雅と称し、晩年には東海、享軒等の号を用いた。通称を孝兵衛と云い、下毛粟宮の人である。その祖は藤原秀郷に出で、中頃廣信という者が大橋邸に住み、遂に氏となした。世々小山氏の将校として名があったが、小山氏が亡んだ後は各所を転々とした。照重という人の時に粟宮に隠れて帰農した。淡雅8世の祖である。
享保元年に法名を寶樹院という者がおり、大橋家の本家の後継者に入嫁して一女を生じたが、後に夫が死亡したため、本家の北屋敷に女を携えて分家した(今お北と称する大橋良太郎氏の家である)。蓋し淡雅の曾祖母である。一女法名安住院は下妻(茨城県)吉田氏の男知玄を迎え、知英を産んだ。知英は淡雅の父である。以下、知英の自伝である。


予家素と農を業とす。富貴に汲々たらず、貧賎に戚々たらず、性虚弱にして力作に便ならず。これによって、下妻沼尻氏なる者に客居して商販の事に奔走する事若干年にて家に帰り店を開いて貨殖し、ようやく大ならんとす。中年にして眼疾を患うること数年、ここにおいて亦廃す。切に医を求むれども良医に遭わず。たまたま聞く信州諏訪竹内新八郎なる者眼科に妙術なる事を。すなわち適いて治療を請う。竹内氏一診にして則禁方を投与せらる。所謂巻中に載する処の治方なり。奇かな三旬にして功を奏し、にわかにもとに復す。実に微明の良方なり。伝来その業に長じ、その術に精しき事かくの如し。予感服すること甚し、よってその家に止まること数月、たちまち医に志有り、この方を以って患る人に施さばその悦び知りぬべし。憤発刻苦して竊に奥妙口決を得たり。これを為すを以って天機なり、予家に帰りて志を篤くし心を用いて古人の往行を拾い集め、ひたすら参考して、試み、広く諸人に施すに一もその験あらざる無し。ここに因りて四方治を乞う者以て百数を数う。ついに商賈を棄て眼科を業とし、齢五十五にて頒白を剃し、名を英斎と改め、今茲に七十有三歳、二十余年烏兎を移すの間、諸名家の秘方漸々に雑記し、傍ら医の本道を発明して起廃回生する事勝計すべからず。これ予が幸なり。尚くば後世の子孫早屈して名家の秘方に値い、余が志を継ぎ、準的してこの方を明察し治療に益有らば、不朽にして満エイ(籠)もこの巻に如かず。強に大方の君子に伝えんとにあらず、自家の子弟悟恵安かうが為にす。故に卑陋を飾らず、その意を識すと云う 爾

                               文政三庚辰秋八月  大橋英斎知英


英斎の子に生まれた淡雅は幼い時から勉学にいそしみ、父と同じ医者を志していた。しかし、英斎は淡雅を宇都宮の商人菊地孝古のもとに預け、商売の道に進むべく養子に出す。淡雅は初め納得せず医者として立身したいと訴えるが、父や孝古に諭されて医業を断念する。
後に江戸に出て一代にして豪商へと商売を発展させることになるが、学問に一方ならぬ大望を懐く志は止まず、ついには娘の婿に佐藤一斎のもと儒家として有望な清水赤城の四男順蔵(訥庵)を迎え、大橋の名籍を継がせる。
淡雅は大橋家の郷里である小山粟宮に訥庵夫妻のために邸宅を建てるが、訥庵夫妻は江戸において、思誠塾という私塾を経営し粟宮の邸宅に住まうことはなかった。しかし、宇都宮藩の藩儒として士族に列せられ、栃木との往環にある時は粟宮の邸宅に宿したという。また、文久の年に入り、皇女和宮の降嫁=公武合体に反対し、尊皇活動に奔走するや、粟宮の邸宅を密謀のあじととし、水戸や宇都宮の志士と計画を協議した。文久二年一月、坂下門外の変に際しても、この邸宅が事件の出撃基地となった。


大橋訥庵居宅跡
栃木県小山市粟宮1452

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光明寺〜祖父久吉の実家 岡部家の菩提寺

栃木県小山市神鳥谷


久吉・艶子夫妻 大塚宅にて
祖父久吉(1877〜1958)は小山岡部家の出身で、本所外手町の佐野屋に奉公していた。2代目永之助当主の時代であった。淡雅亡きあとの菊池東家は、幕末の開国〜海外貿易の開始によって、木綿商いに大きな打撃を受け、不安定な世情を背景に、教中が資本を宇都宮に引き上げて新田開発に注ぎ込んで行った。また、教中の時代に安政大地震や大火で莫大な損失を受け、教中が坂下事件で囚われると、その訴訟対策に多くの出費が嵩んだ。しかし、教中の長男慧吉=長四郎経政は、教中の遺志を継いで栃木県の新田開発事業を完成させた。

その後、明治維新を迎えて精魂傾けて開発した田畑は新政府に接収されるところとなったと思われる。このころ、教中の養子に入った代吉の5男、永之助政隆は本所外手町で質店を経営しており、都内でも有数の質屋として盛んであった。
永之助政隆には子がなく、大橋家から訥庵の孫を養子に迎える。2代目永之助である。この縁組後に政隆に一子艶子が生まれる。すでに、家督は2代目永之助に移っていたため、艶子には支配人の岡部久吉を婿として豊島区西巣鴨(現在の豊島区北大塚)に分家し質店を出店させる。時に大正11年11月であった。この翌年、関東大震災が起こり、本所の本家は全焼してしまう。

当時の菊池家を見て来た久吉は、佐野屋の繁栄、菊池の消長を一枚の系図に残し、子孫に伝えんとした。この系図を手掛かりに、傍系ではあるが小生のルーツを辿る旅が始まったのである。


佐野屋支配人の頃の久吉


光明寺にある岡部家の墓地 天保年間の年記があり古い歴史を感じさせる。久吉の3男で岡部の名籍を継いだ省三伯父もここに眠っている。