政権恢復秘策 大橋訥庵起草 文久元年(1861)9月5日
 癸丑甲寅の歳(嘉永6年〜安政元年)外夷が来て通商を乞うて以来、幕府の処置は一事も其宜しき所を得ず。因循姑息のみ専らにしたから、外夷はますます驕慢を逞しくして、凡そ其欲する所強いて乞わずと云うことなく、幕府の有司は彼れを恐るること日々甚だしくして、是非を論ぜず、利害を問わずすべて許さないということはない。貿易の興ったのはまだ三年の月日に満たないけれど、物価の騰貴、列藩の疲弊、細民の困窮等は殆んど凶災の如くなったのを悟るべきである。幕府の有司どもは、夷狄と親交するに随い、彼れが威力を恐るるばかりでなく、彼れが佞黠に幻惑されて、今は外夷も頼もしき者と思い、信義ある国と信じて、却って攘夷を議する忠士を悪み、若しも海内の諸侯などに夷狄を攘わんと謀る者があると、即刻夷狄の援兵を借りて、其国を討たせようとする勢いがある。かくては折角義旗を挙げても、奸吏の為に叛名を負わせられ、夷狄の賊兵を誘い納れて、皇国を擾乱するに至る筋故天朝に対して恐れ多い。これでは天下の諸侯の中にたとえ忠憤の人があっても、容易に義旗を挙げ難く、志を包み跡を晦まし、徒に彼れの跋扈を切歯しつつ手を出さない所以である。それでは勤王の義心ある者に叛名を負わせずに、十分に其力を出させ、攘夷の快挙をなさしめるには、別に奇策というものはなく、只速やかに天朝から夷狄撰斥の勅命を公然と海内に下し玉うて、感憤激発させるほかはなく、この策さえ決し玉えば、神州の命脈は恢復しないということはない徳川家の武威は衰えはてて、天下の人心は全く離れ、府庫倉廩も空虚になって、天下を馭する権を失い、僅かに祖宗の余沢を恃んで諸侯を指揮するまでであるから、夷狄のために慢侮されて、其毒次第に浸淫し、一日一日に元気疲れ、恢復すべき機というものは、万中に一つも見えない。幕府の滅亡することは、決して遠いことではなく、近く十年の間にあることは、鏡にかけて明白であるから、まことに危殆の至りというべきである。幕府の滅亡は兎に角としても、昔天祖の神勅に天壌無窮と宣わせられた天朝を夷狄に付せられては、誠に大なる御不幸と申すべく、万々すまざる筋であるから、今は徳川家を思し召し捨てられて、夷狄掃殄の一条は、少しも幕府に御頓着なく、ずかと海内へ勅を下され、只々此大日本国を蛮夷にならせじと申す所に、大活眼を著け玉わねば恢復の成功を得玉うことはできない。今まで微弱であらせられた天朝の御威光も、これから古へ復せられて、宝祚の無窮に至らんこと、瞭然として火を観るようである。是れ某が巨罪を忘れて、かかる鄙論を草定し、若し蒭蕘に詢い玉うの時もあれば速やかに身を闕下に致して此策を献ぜんと欲する所以である。

宇都宮市史 第6巻より