「草莽献芹問答稿」菊池教中    桜田門外の変について教中が記した文書 万延元年(1860)3月〜8月頃

「今春、三月之儀有之しより人心益感激して大義を不思者は恥敷様に相成、是迄は左程の筋とも不心付罷在候蒙昧之者迄も、義士懐中之書を一覧いたし、正大之議論、筋道と申者は成程左様無之而は不叶筈之者と申処に心付、壱人申続き候より十人相唱、十人より百人、百人より千人と追々と申伝、申触し、いつとなく天下一般日本魂はここぞとて感動いたし候なれば、却而此後之御盛挙可有之下染には十二分之大功に相成居候儀と奉存候

   「草莽献芹問答稿」菊池教中(菊池小次郎文書)

この文書は、教中の時務策としては最初のものではないかと思われる。その11カ条にわたる問答体形式の中で、彼は前水戸藩主徳川斉昭に「非常之御英断」をもって出馬・挙兵して、幕府の有司「国賊」の誅伐を要請する。そして挙兵の時期を尚早とするのは「副将軍之御身分」としては「御名分、御節義」には背反すると強調する。

成敗を予メ計り置、相違なく可遂儀を十分見詰而発候儀ハ誰にも出来可申、且、町人百姓等を当テニ可被遊訳を論シ居所ニ無之、縦令無謀之軍立と云ハゞいへ、義ニ於不可止勢なれハ、御身をも御家をも御擲被遊、十分御敗勢可被為在御先見有之共、是非是非御憤発不被遊候而ハ不叶御場合と奉存候。

かくて「敬宗除奸、尊王攘夷」と大書した二旒の旗を押し立て、手兵をもって突如出馬すれば、諸侯はじめ「天下之義民浪士」が馳せ集まり、結局は大勢を決するであろう。「徳川御家御長久」のため「草莽之我々共迄、深慷慨仕、右ニ申陳候」というのがその要旨である。
                               秋本典夫著「北関東下野における封建権力と民衆」366頁