2008年6月15日
浅野内匠頭と赤穂四十七士の墓所で有名な高輪泉岳寺の一角に大橋知良の筆による碑文があります。
南窓翁とは、南房総富浦に生誕した柴山常晴こと柴田南総です。柴田南総は江戸に出て講釈師として高名を馳せ、特に「赤穂義士伝」(忠臣蔵)を全国に広めたことで有名です。この功績を顕彰して、義士たちの眠る泉岳寺の墓所の一隅に石碑が建てられました。
石碑の撰文は南総の門人柴田南玉で、書は当時江戸の豪商に成り上がった佐野屋孝兵衛=大橋知良になる。
時しも嘉永元年(1843)、海外の勢力が日本との交易を求めて出没し始める時代の転換期であった。
赤穂義士伝に登場する大阪の義商天野屋利兵衛に自身を重ね、豪商であると同時に、義を重んじ、佐藤一斎を始め、当時の儒家や文人とも交流のあった淡雅知良であるからこそ、この碑文を書き泉岳寺へ献じたのであろう。知良60歳の書である。


南窓翁碑は四十七士墓所の一番奥、通路というか回廊に出たところにあります。
「南窓翁碑
先生諱常晴柴山氏号南窓安房州之人
住於江戸以講軍記為業伝聞強識而雄
弁動衆声名藉甚者已四十余年矣尤好
講赤穂盟士之伝蓋為人臣之準則
欠有忠者必有孝先生常説此両議以示
諸人凛凛意気傍若無人自称海内之一
人也 弘化三年丙午四月十五日以病終
于家高寿七十有三門人南玉柴田翼撰
嘉永元年歳次戊申四月建大橋知良書

隷書体で書かれた石碑のタイトル

本文は几帳面な楷書体で刻まれている
四十七士の墓石が並ぶ区画。大石主税の墓は屋根がかけられている。この裏手に南窓翁碑がある。(右)

中央は大石内蔵助の墓(下)

赤穂義士と当家とののかかわり

清水赤城「赤穂義士 人之鑑(涙襟集)」

清水赤城すなわち、大橋訥庵の実父である。
兵学・砲術の一人者としてつとに著名であったが、その本質は儒者であり、文武一致を説き、忠孝の大義を鼓舞し来たったその精神は脈々として後世に伝わり、幾多の勤皇の士を輩出し、更にはその子に、大橋訥庵を産むに至る。

涙襟集は「赤穂義士人之鑑」の名を以て呼ばれている。赤城はある時、計らずも赤穂義士の書簡を得て甚だよろこび、遂にこれを編んで一書としたものである。右はその序文である。

涙襟集序
伝に曰く、夫婦有り而して後父子有り。父子有り而して後君臣有り。三者殊ると雖も、其の道は一のみ。この故に五倫の道は忠孝貞を以て最重とな為す。いやしくもここに一有れば、すなわち後世に伝ふるにこれを竹帛に記して足れり。いわんやこの三を以てともに一門に萃(あつ)むる者においては昔は赤穂義士の中小野寺秀和有り。

小野寺十内(秀和)がその妻に与えた書簡を絶賛し、顧みて近来士風競わず、忠孝貞の何たるかを知らぬ世情を慨嘆し、ここにその忠孝の心を激揚せんがために、これを編んだ旨を詳しく述べている。
涙襟集は文化11年(1814)赤城49歳の時に成ったが、その後友人である鍋田晶山の大著「赤穂義人纂書」に収められた。
「赤穂義人纂書」については、赤城の子孫に至って数奇なエピソードがある。


赤穂義人纂書由来書


鍋田晶山は奥州へ携行してしまっては、あたら集大成した大石良雄らの事跡が、全く日の目にあうことなく埋没せんと、憂えたれば背負い持ちきたり。「この十八巻は年頃日頃ずっと心を込めて、赤穂義士に関しすることは細大漏らさずに書き写し集大成したものなるが、辺隅の地に携行すれば再び世に出ることもなからん。それでは大石良雄らの霊も浮かぶことなからん」と、もし機会が在れば刊行してくれるよう言い残して去っていったのは自分も子供心に覚えている。
その後、明治の中期より旧幕時代のごとき各大名領のみの国史と違い、日本全体の歴史学が盛んになり、歴史学の泰斗重野安繹博士も赤穂義士について研究され、「世に、赤穂義人纂書なる貴重な集大成ありと仄聞するが、われ不幸にして未だ見る機会なし」と講演されたるを聞き、当家に伝わる旨を新聞紙上に公表せしところ、上野図書館より一部筆写したき旨の申し出を受けたり。が、たとえ非売品の体裁にてあれ、刊行されるのは故人の晶山や祖父清水赤城、父大橋訥庵らも共に歓ばんと、本書の由来を此処に示すものである。
      明治四十三年六月   大橋義 識 

大橋義は大橋訥庵と巻子の実子で、訥庵の最晩年に産まれた。長兄、次兄と夭折したため、姉の誠子は河田氏より正壽を養子に迎えた。
「赤穂義士史料復刻版」(上、中、下)を主な資料とした。
「赤穂義人纂書」の原本は磐城平藩士・鍋田晶山が収集した赤穂事件に関する記録集で、(1851年頃)原本は散逸していたが、その写本が義の祖父清水赤城から、大橋訥庵の手にわたり、訥庵投獄の際にも守り通してついに国立国会図書館に伝わり、それを元に国書刊行会から(1910〜1911)発行されたものである。

赤穂義士の事件は、権力者である幕府にとっては、反逆事件であった。このため、事件をあからさまに称揚しすることは、すなわち幕府への批判に通ずるものであった。
この事件を、時代を変え、所を変えて物語として流布したのが南窓翁であった。義の父方の祖父清水赤城が涙襟集を刊行し、母方の祖父大橋知良が南窓翁碑の碑文を書き、父訥庵から伝えられた赤穂義人纂書を世に出すこととなったのは、数奇な出来事とも思える。