淡雅の奥鬼怒温泉開発

淡雅63歳(1851年嘉永4年)

下野国(栃木県)日光沢温泉の開発。

日光沢というところは日光山より奥に入ること12里(48キロ)の距離で、男体山の背後にあたる土地である。ここの温泉を最初に発見したのは近年のことであるが、深山の不便な地であるから浴室などの温泉設備に投資し経営しようという者はなかった。しかし、この温泉は奇効が多い霊泉という評判があり、温泉浴のために足を運ぶ者は絶えなかった。

日光沢の手前3里(12キロ)のところにも温泉があり、これが川又温泉である。川又温泉には湯守がいたのであるが、それもただ一軒だけで温泉客に貸す長屋が二棟あった。一間は大体が6畳の間で、そこには地炉はあっても流しや食器棚のようなものもなく、膳椀や夜具を小屋の隅に並べ置くようなものであった。四方の壁は板を一枚打ち付けただけのもので、障子もなく、畳などは何年経ったかわからないほどで、ほとんど破れて満足に座ることもままならぬ様子であった。湯守は地元の者ではなく、今市の宿駅から出張してきており、3月に山に入って8月には今市に帰ってしまうということだった。川又温泉ですらこのような状態であったので、日光沢までの3里の道のりは道のような形跡があることはあるが、大変険阻な道で鬼怒川の水源を8回も渡らねばならないので、万一大雨に遭えば帰路が塞がれるのを怖れて、行きたくとも果たせなかった人が多かったと聞いている。

淡雅はこれまで、この温泉を病気の人のために開発しようと欲していたけれども、多忙のために果たすことができなかった。

嘉永4年(1851年)5月、息子の教中と従業員の源兵衛を従えて、初めて日光沢を訪れた。以前よりはいくらかは開けているというように聞いていたが、2間(360)×5間(9m)の板小屋があるにはあるが、入り口は三尺(1m)の狭さで、縦三尺(1m)横1間(1.8m)の窓と、火炉がひとつあるだけで、厠(トイレ)すらないために、小屋の隅に人糞があったりするような汚さであった。床はところどころに板が敷いてあるだけで、食物などもなかった。

莚や蒲団などをことごとく川又から取り寄せることになった。温泉は40歩ほど下った渓流の岩の間にあって、20年前に作ったままなので屋根もなく大変不便なものであった。淡雅はここに数日間留まり、地形をくまなく観察してから川又に戻って温泉経営について皆と論議した。川又温泉の手前二里のところに戸数30軒ほどの川又村があり、温泉はこの村に属するものであるが、村の住民は山の民で鹿やいのししなどの猟を営んでおり、旅客の応接などはできないために湯守を今市から呼び寄せて温泉客の接待を任せているということである。

245年前のことであるが、飢饉があった年に川又の村民が子供たちを殺して食料にしようとしていたところ、日光の奉行所がこのうわさを聞いて驚き、川又を訪れて村民を集め道理を諭したところ、村民はようやく夢が覚めたように涙を流し非を詫びたので、役人は村民を憐れんで米粟を与えたということであった。こういういきさつを聞いていたので、私(教中)が淡雅に付き添って行った時も、土地の民は温泉に入った後も身体を拭かずに、そのまま衣服を着たり、雨に降られても着物を乾かしたりしないので、私が土地の者に「どうして火で乾かしてから着ないのか」と聞いたところ「いいえ、火で乾かすよりも、身に着けてしまったほうが早く乾くのだから」と言って自若としている。こういうことで、この地の民の習俗を想像してみるとよい)

それでも里正(ナスシ)と名乗る者は、いつも日光や今市に出かけて世事に通じているので、淡雅は里正と湯守を呼んで、日光沢を開発することを相談したところ、これは里正と湯守にとっても利益となることが多いことからすぐに承諾を得られ、話がまとまった。

計画の大略は、まず日光沢の小屋の西側を開いて、2間半(4.5m)×6間(10.8m)=14.7坪(48.6平米)の長屋を建て、三部屋に区切って一部屋ごとに火炉を作り、押し入れを付け6畳づつ扉で仕切り左右に厠(トイレ)を設け、流し場も作り、部屋にはすべて畳を敷きつめ戸や障子を設ける。これまでの小屋に大きく手を加え修理して厠を付け足し、浴場を新しくして、屋根はもちろんのこと脱衣場まで作る。温泉場までの3里の険しい道は開いて歩きやすくし、8回も渡らなければならなかった鬼怒川には大木を橋桁にして両側に穴を開けて藤蔓で川岸の老木に繋いで、洪水にも耐えられるよう備える。

このように話がまとまり、施工は里正と湯守に委託し費用を渡して帰った。

翌年、重兵衛という者を使いに出して、その様子を窺わせたところ、淡雅の考えた通りに出来上がっており、村民や旅客も大いに喜んでいたということである。

この2年後嘉永6年(1853517日、淡雅が病没したことを川又の村民が伝え聞き、淡雅の名を小板に書いて皆が一ヶ所に集り念仏を唱えて祈っていたということを、その月の2627日に日光へ遊浴に行った者が知らせてきた。17日に亡くなったのに、2627日には早くもあのような山中にも伝わったということである。


当時の面影を残す鄙びた日光澤温泉八丁湯のガイド犬チビが先導する。

奥鬼怒四湯の中で一番の規模、加仁湯
奥鬼怒温泉 八丁の湯 滝の見える露天風呂 奥鬼怒四湯は、八丁湯、日光澤、加仁湯に加え、手白沢湯の4つの湯治場がある。