書簡資料 文久2(1882)年4月27日 訥庵と教中の赦免運動

乍恐以書附御嘆願奉申上候

【恐れ乍ら書付を以て嘆願申し上げ奉り候】

   乍恐以書附御嘆願奉申上候
宇都宮寺町菊地孝兵衛母たみ奉申上候、私婿大橋順蔵義江戸小梅住宅に御坐候處、南奉行所様より御吟味の筋有之趣を以、當正月十二日御召捕に相成揚屋入被仰付、猶又倅菊地介之介義も右順蔵為引合御召出に相成、當御屋敷御預けに相成候處、同二月廿二日是又揚屋入被仰付奉恐入候、順蔵介之介両人共平生多病にて昨年以来種々相悩罷在、順蔵義者胸痛積氣の症にて時々難渋仕、介之介は欝症にて疝積等も有之、牢内には火気も無之、湿氣深く疫病を不煩者有之候由承及、且追々炎暑の節にも相成候事故持病の外に餘病にても相發し候ては存命の程覚束無く、御吟味詰に相成らざる内、萬一病の為に没命致候様にては誠に以て嘆かわしき事に存じ奉り候。私儀日夜寝食を安からず苦労仕り老後の餘命も覚束無く、且両人妻子共昼夜相嘆き悲涕罷り在り、見るに忍びざる仕合いに付拠所無く此度御嘆願申上げ奉り候、何卒御慈悲を以て右両人も御吟味中當御屋舗へ御預けに相成り候様両御奉行所様へ御嘆願成し下され置候様偏に願上げ奉り候、右願の通り御聞済成し下され置候はば莫大の御慈悲と有難き仕合せに存じ奉り候。
                     以上
   文久二年戌四月
                菊地介之介母
                大橋順蔵妻子一同
                菊地介之介妻子一同
                右願人代 玄六 印
  御領主様
   御留守居御役所

坂下義挙録 346頁

たみの嘆願書は、宇都宮藩の川村多勝(戸田越前守忠恕家来)から、南町奉行黒川備中守盛泰へ以下の副書を添えて提出された。

別紙の通り嘆願書差出候に付、病体の處篤と相糺し候處、前書たみ願い奉り候通り常々胸痛疝癪(せんしゃく=胸や腹などが差し込んで痛む病気)等にて、時々難渋仕り候。炎暑にも相成り候へば必ず大病相成り候儀と存じ奉り候

この嘆願書は却下されたが、この後も5月に嘆願書を差し出している。一方、折しも朝廷の勅使大原三位重徳が東下、勅旨を奉じて幕府に改革を迫ると共に、尊王攘夷派の赦免を論じている。宇都宮藩の縣勇記(六石)は、勅使護衛のため随行していた島津久光の家来堀小太郎を通じて、大原勅使に赦免を働きかけた。さらに、宇都宮藩の重職間瀬忠至(後に宇都宮藩主となる)らから、幕府へ赦免運動を行った結果、7月6日に奉行より宇都宮藩に出獄の申し渡しが下った。
「御家来之内壱人揚屋入之格ヲ以て御引渡ニ相成り候ニ付預リ人一人差添人一人、切棒籠一梃用意にて明七日罷出候様云々」(大橋訥庵伝160頁)