回向院前景 入口をくぐると墓地がある
2009年1月18日
東京都荒川区南千住5-33-13


篆額部分は子爵渋沢栄一の書
「烈婦瀧本之碑」

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小塚原回向院について

小塚原は慶安4年(1651年)に創設された、鈴が森、板橋とと並ぶ江戸時代の刑場です。明治初年に廃止されるまで、20万人以上の処刑者や獄死者がここに埋葬されたそうです。埋葬とは言うものの、遺体はわずかに土を被せられた程度で捨て置かれ、鳥獣の食い荒らすに任せられていたようで、あたり一帯には異臭が立ち込め、まるで地獄そのものであったと言われます。
小塚原回向院は、これら刑死者を供養するため、寛文7年(1667年)本所回向院の別院として当時の住職・第誉義観上人が建てたものです。
鼠小僧次郎吉や毒婦高橋お伝など有名人(?)の墓や、安政大獄で処刑された吉田松陰、橋本左内の墓、桜田門外の変で亡くなった水戸浪士たち、坂下門外の変で闘死した志士たちの墓があります。
烈婦瀧本の碑

瀧本は名を伊能といい伊予大洲の生まれで、生家が零落したために遊女として江戸吉原に売られる身となった。あるとき、水戸浪士関鉄之助が上がったところ、その楽しまない様子を不審に思った瀧本が関に尋ねたところ、攘夷の事を聞かされた。すると瀧本は意外にもその志を理解しこれについての意見を吐露した「妾久落風塵路花穡柳任行人折、挙亦少知大義為何物方今愛外夷者不奉 天子之詔」、関は驚く「紅唇又吐如斯語乎」それからは、この瀧本を深く愛するようになり、その後遊女から足を洗わせて一緒に住まうようになる。
そして、桜田門外の変にあたって、この家で志士たちが密会し謀議の場となったが、瀧本は内助を立派につとめ、関を義挙に出撃させる。事件後に幕府は瀧本を捕えて、事件について尋問しひどい拷問を加えるが、瀧本は屈せず獄中において、23歳の命を閉じることとなる。
「大丈夫為国謀事豈告之婢妾」と口を閉ざしたため、「笞杖下体無完膚更之取石堆積膝上、血肉迸離終不言痩死于獄中」。男子でも壮烈な獄死である。
大正10年7月、桜田義挙に殉じた瀧本を慕い顕彰してこの碑が建てられた。
篆額は資本主義の祖と言われる渋沢栄一氏の書、撰文は桜田義挙録の著者であり、坂本竜馬研究で知られる岩崎英重氏、本文の書は当時の資本家であり、坂下義挙に深く関わった菊池家の惺堂菊池長四郎(教中の子、慧次郎の養子)である。このとき長四郎は烈士遺蹟保存会理事長を務めている。
回向院墓地

児島草臣 
しづたまき数ならぬ身も時を得て天皇(きみ)がみ為に死なむとぞ思ふ

荒川区教育委員会の案内図
頼三樹三郎収屍一件 
頼三樹三郎は江戸時代後期の漢学者頼山陽の3男で、父山陽は「日本外史」の著者として知られる。
山陽の「日本外史」などの思想は幕末尊王運動に大きな影響を与えた。その遺志を継ぐ三樹三郎も、京都にあって家塾を守るとともに、寛永寺石灯事件、将軍継嗣問題などで激しく幕政を批判した。京都では梅田雲浜、梁川星巌らとともに国事に奔走、安政大獄でついに幕府に囚われることとなる。
安政5年(1858)12月に梅田雲浜らとともに京都で捕らえられたのち、江戸へ送られしばらく取り調べられて安政6年10月7日、小塚原において斬首処刑された。ちなみに、梅田雲浜は同年9月14日、取調中に獄死(拷問死とも言われる)。

千住小塚原の刑場で風雨にさらされたまま、捨て置かれた屍体を見て、心ある人は黙することができなかった。しかし、何人も幕府に嫌疑をかけられるのを恐れ手を出すものはなかったという。
この有様に大橋訥庵は我慢ならず、「頼三樹は山陽の遺児ではないか、山陽は人となり慷慨、延元南狩の事を論ずる毎に流涕したと言うではないか。三樹が刑網に触れたのも夷狄跋扈し神州陸沈するを憤っての事であろう。これは黙過するに忍びないことである。」(與楠本碩水書より)と、
かくて三樹の門人江木某に葬らせようとしたが、江木は卑怯にも嫌疑を恐れて隠れてしまった。訥庵は「大義を知らぬ奴だ」と憤慨して、遂に自ら事に当ろうと決心する。
安政6年の冬、訥庵は密かに塾生数名を召して告げた。「頼三樹の刑死を聞き、その絶命の詩を見て感慨が甚だ深い。同時に刑に遭った二人はその藩主が屍を乞うて収めたが、三樹のみは狐狸の食となっている。どうして忍ぶことができようか。汝等は余に従って来い。」と、かくて塾生を従え、帛衣棺等を携えて小塚原へ赴いた。小梅の塾から数町北へ行くと小塚原に達する。当時はほとんど人通りも稀な一角であった。
訥庵は刑場に至り、塾生等をして水を汲みその屍を洗い、帛衣を被らせて棺に入れ、石を建てた。これは当時従って刑場に赴いた森退蔵の実記である。
この事は瞬く間に漏れ広まり、一世の評判となり、知るも知らぬもその義心をを讃えたが、幕府の奸吏は甚だしくこれを憎んだ。
然るに楠本碩水はこれを以て、事を好み名を求める所以なりとし、再三忠告した。訥庵答えて「僕のこの挙を図るは、名の為にするに非ざるなり。忍びざるの情を達するに過ぎざるのみ。」と反駁する。
訥庵が頼三樹とは全く無関係であるとは、訥庵自らが述べてはいるが、頼三樹の門人薄井龍之の談話によれば、薄井は訥庵と三樹との間を往復し画策するところがあったという。薄井は訥庵の門人縣信緝とも親しく、縣が蒲生君平遺稿を出版した時に、薄井が序文を作り、訥庵の義子陶庵が跋している。
一件はここに一応の落着を見たが、その後訥庵が捕らわれた時、小塚原回向院の役僧見休も公儀を恐れざる致し方として召し捕られた。
訥庵が後に捕われた時、獄中にあってこれに関する尋問を受けた。獄中から巻子夫人に宛てた書簡に右の事を記して、
 「先達而中、三樹の墓の事も、奉行所にて与力が申出し候へども、、拙者其訣を申し開き候ところ、与力もソレハ咎ムル程之事にも無之、只序ゆへニ尋ヌルのヂヤと申し候位の事ゆへ、恐るるには足らぬ事と存じ居り候。」
とあるが、幕府が訥庵の処罰案に三樹の墓の一条を加え、落着後、墓を取り壊させた事から見て、その心を知る事ができる。
訥庵没後、長州藩士山尾庸三等は藩主の命によって、吉田松陰の骨とともに、小塚原から世田谷若林村へ移した。この時、訥庵の義子大橋壽次、訥庵の門人関口艮輔等が活動したことは、周知の事実である。墓は今も若林松陰神社境内にある。


訥庵の詩