東京都立中央図書館 特別文庫室所蔵 特別買上文庫渡辺金蔵旧蔵資料より

吉田丹兵衛は十代目菊地治右衛門(孝古)の時代に暖簾分けにより独立した。同時期に分家した橋本文蔵の佐野屋司店と並び、佐野屋丹兵衛店=佐丹店として商売を大きく広げることになる。これに加えて菊地孝兵衛(大橋知良)の日本橋東家が3本柱として、佐野屋は大商人にのし上がる。吉田家の子孫はやがて江戸車坂(浅草)に質店を出店し、明治30年頃には東京でもトップの質屋となった。初代吉田丹兵衛の墓所は菊地本家と同じ宇都宮生福寺にあるが、車坂の吉田丹兵衛(知義)の墓所は当家と同じ天龍院にある。
大橋知良が文案を作成し、菊地教中が書いた親子合作のこの碑文は、その所在が明らかでないが、拓本を渡辺金蔵が所有してあったのを東京都中央図書館が買い上げて所蔵している。
拓本の画像は東京都中央図書館に依頼してマイクロフィルムに写したものを紙焼きしてもらったものである。

石碑から分かること
吉田丹兵衛 号は勇徳義翁、諱は満嘉吉田氏、幼名を清太郎と言い、後に丹兵衛と称した。出身は武蔵の国忍すなわち、現在の埼玉県行田市のあたりになる。寛政4年行田喜三郎の次男として出生した。文化初年(1804年)12歳の時に本家を管轄する利助に連れられて宇都宮の菊地孝古のもとで仕えるようになった。菊池家は古着の商いを家業としており、孝古は菊地氏10代目治衛門として家業も栄えていた、
丹兵衛の性格は、真面目であり律儀であったとされている。菊地家に仕えるようになって、早くから商売の道に通じ、丹兵衛19歳の時に孝古は将来のことを考えて分家を増やす目的で丹兵衛をして本店の近くに店を開店させて、孝古の母の媒介によって野澤氏より妻を迎えた。それからも、商売に精勤し本店の主立った臣に列することとなった。淡雅が六歳の時に習字を丹兵衛から教わり、商売の範囲は駿河、三河、遠州から江戸に及び、30年間一日の如く淡雅との情交が篤かった。
淡雅は淡兵衛を恭順すること兄の如く止むことはなかった。
嘉永元年(1848年)四月二十四日、病気により自宅にて生涯を閉じた。享年五十四歳、。宇都宮寺町の生福寺へ埋葬された。野澤氏との間には一女一男を設けた。

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