2004年9月9日 栃木県河内郡東岡本を訪ねる

菊池教中は安政2年(1855)11月より栃木県河内郡東岡本の鬼怒川西岸に広がる荒蕪地の開発に着手しました。教中の父淡雅知良は佐野屋孝兵衛と称して商売をを経営していましたので、教中は二代目佐野屋孝兵衛となり、新田開発を宇都宮藩に願い出て、当時財政に苦しみ新田開発を奨励していた宇都宮藩から全面的に受け容れられ、有利な条件で開発を行うことができました。
4年後の安政6年4月になると、70町歩210石の村に成長しました。宇都宮藩は教中の藩政改革の協力に対して、御家来並・7人扶持の武士と対等な資格を与え、子の慧次郎に対しても苗字帯刀御免・町年寄格の最上層の町民として待遇することにしました。
文久元年(1861)教中はまだ9歳の子慧次郎に家業を譲り、新田開発事業も継承されてゆきました。
岡本新田は佐野屋孝兵衛の名前にちなんで「佐孝新田」と呼ばれました。

2004年9月9日 岡本新田を訪問する。黄金色に実った水田を眺める。
岡本の地にある琴平神社は教中の父知良の号である「東海」をとって東海神社と名付けられました。
明治期になると、分家の菊池経政(教中の子慧次郎)が東海銀行(UFJ銀行とは別)の初代頭取に就任しますが、群馬県の四十銀行と栃木県の四十一銀行が合併して八十一銀行となりその後東海銀行と名前を変えたものです。改名の由来は分かりませんが、教中の新田開発事業を引き継いだ慧次郎がその尊敬する祖父の雅号にちなんで名付けたのではないかと推測できます。

東岡本と東海神社の地図

鳥居には琴平神社の扁額が掲げられている。
参考資料 江戸時代人づくり風土記9 ふるさとの人と知恵栃木より
参考WEB 河内ふるさと探訪2002年2月15日
        河内ふるさと探訪2002年11月15日