幽囚日記 昭和17年8月25日発行 発行所 宇都宮市寺町三 静観堂
     著者 故人 菊地教中 編集者 寺田剛 発行者 菊池次郎

菊池澹如傳 

幽囚日記解説

幽囚日揮は菊池教中先生が文久二年に阪下疑獄に坐して江戸伝馬町の獄に在った時の日揮である。
先生名は教中、字は介石、澹如と号し、大橋淡雅翁の長男として、文政十一年八月十七日に生れた。
その生年は逆算によるが、月日は従来不詳なりしところ、幸に菊池次郎氏蔵する所の先生の母菊池民子の日記嘉永六年八月十七日の條に「夕飯は介司誕生日に付例年之通り赤飯出す云々」見え、これによって知ることを得た。
先生夙に家翁の訓育の裡に人となり、嘉永六年二十六歳を以て家業を継ぎ、名声を墜さず、加ふるに詩書を嗜み風雅の道に名あり、その著澹如詩稿の如きは、清麗雄秀なる幾多の吟詠に加ふるに、渡邊崋山、春木南溟、高久靄香A椿椿山等の近世名画家の筆になる花鳥山水を挿入し、その構想の斬新華麗なるは、夙に斯道の士の歎賞する所となっている。
既にして幕末国事日に非なるに際しては、遠祖菊池正觀公以来脈々として流れ来った勤王憂国の至情やみがたく、浦安邦一郎と変名し、姉巻子の夫大橋訥庵先生勤王の義挙に加り、帷幄の参謀として、将又宇都宮方面の統帥者として、日夜身を苦しめ心を痛めて奔走し、その活躍の跡著しきものがあった。
然るに文久二年正月、訥庵先生口惜しくも捕はれて江戸伝馬町の獄に投ぜられるや、先生も亦同所に於て桎梏の憂目を見、隣牢に兄弟相見る能はざるまゝ半歳に及び、相継いで出獄後間もなく急疫に冒されて三十五歳の壮齢をもって溘然逝去されたのである。時に文久二年八月八日。菊池家縁由の寺院たる江戸谷中三崎町天龍院に葬り、後に宇都宮寺町生福寺にも墓を建てた。
明治の聖代に至り、聖恩枯骨に及び、靖国神社に合祀仰せ付けられ、明治四十一年九月勤王の功により特旨を以て正五位を贈られた。
本書は先生が右の事情にて捕らはれて獄にありし際、禁を犯して秘かに筆墨を入手し、日夜丹念に獄内外の情勢、疑獄救解運動の指示並にその実況を記し、また差入物品金員等も細々と認めたもので、恐らく志士の獄中の日記としては、最も詳細なるものであり、以て先生平素の細密周到なる用意と、土室猶平日に斉しき剛毅不撓の正気を窺ひ知るに足る。
本書は元来菊池家の本家に伝はるべきものなれども、如何なる理由か、幸ひに宇都宮に伝はり、戊辰の役にも、大正の震火にも逢はずして今日に及んだ。当主菊池次郎氏夙に父祖の志行を慕ひ、その遺著遺文を顕はさんと欲し、その業を余に嘱せられたる為、先年大橋訥庵先生全集上巻を編んで世に送った際、その国事書翰の部に澹如先生の国事関係書翰をも悉く収録し、その勤王運動に奔走された実況を明かにするを得たが、今回この幽囚日記を印刷に付し簡単なる註を施し、これに獄中より母民子に贈れる書翰数通を加へて出版するに至ったものである。
書翰写しの分は菊池慧一郎氏所蔵の訥庵澹如遺墨集中に収められたもの、他は幽囚日記とともに菊池次郎氏珍蔵する所のものである。
なほ先生の伝は下野烈士傳、殉難録稿等にも見えているが、その友小山春山の春山楼文選に収められた菊池澹如傳は、最もよくその面目を伝え、且又後の諸傳の依拠となれるものであるから、これを本文の前に掲げた。
因みに口絵に収めた澹如先生の肖像は、葭田蔡泉の筆になり、書画とともに、菊池次郎氏の蔵するものである。また本文中に日記の一部を挿入した。原本は雁皮紙四ツ折横本に綴じたものである。

昭和十七年一月十五日         宇都宮にて 寺田剛記す

文久2(1862)年1月
    

12日 順(訥庵先生称順蔵)Z(陶庵先生Z次)下知ヲ以テ見囚。
 【この日大橋順蔵(訥庵)と訥庵の養子Z次(陶庵)が幕府の命令により収監される。】
13日 終日在市尹邸中夜雨
14日 暁糾問午後下獄(半久使到)
15日 松本(称キ太郎)山木(称繁三郎)見囚晩呼出 
 【この日坂下事件起こる。山木繁三郎は一橋慶喜の近習(きんじゅ、側近く仕える家来)で、訥庵の塾生であった。松本キ太郎と岡田真吾は一橋慶喜を擁立して、日光山に挙兵せんとの計画を立て、一橋慶喜の近習山木へ密談を持ちかけた。これを恐れた山木が老中久世大和守へ訴えたため、訥庵グループの一斉逮捕となった。】
16日 呼出
17日
18日 順呼出
19日
20日 一件皆呼出山木出牢(是迄ハ寿ノ日記ヲ留ク也)横山領左衛門(宇都宮藩士)談事ニテ介(教中先生称介之介)宇発足雀宿リ小林章三吉田勧内武田友七
【宇=宇都宮、雀=雀宮 宇都宮を出発して雀宮にて一泊】
21日 古河宿
22日 岡田(称真吾)見囚 大澤宿
23日 順呼出(半久使来Z詩云文豈事鉛
順(訥庵)呼び出し取り調べ
教中宇都宮より江戸着 まず宇都宮藩邸徒人部屋に入り堀鰹六君に会う。監察に会う。元浜町佐野屋に至る。
25日 かねてよりなき身と思ひ置からに遅き早をなにいとふべき
(尊王攘夷の志を決した時から命は運動に捧げているので、死すのが遅いか早いかなどはいとうものではない)
27日

大橋玄六(元浜町佐野屋支配人)呼び出し。一通りの調べのみにて、江戸にとどめ置くべしとの沙汰にて店に在る。歩行勝手次第なり。

29日 児島強介、小山鼎吉、横田藤太郎、見囚 Z輿中詩云義烈男児国堂堂千萬斯吾今

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