◇魚も水に溺れることがある

開高 健の小説から拾った。

ずっと後年になってからアラスカへ釣りにいったとき、巨大な野生のレインボー・トラウトを釣ったが、それを逃がしてやるときには、いきなり魚を水に投げてはいけないと教えられた。苦闘のあげくに岸に寄せられた魚はくたくたに疲れているから、水へ投げられると窒息してしまう。両手を水につっこんで魚を支えてやり、魚が力を回復するまで、たとえ指が凍え、爪が白くなってももちつづけてやるのだ。ガイド役の若い魚類学者がそう説明しつつ、川に入り、魚を両手で支え、やがてゆらゆらと魚が泳いでいくのを見送りながら、「魚も水に溺れることがある」と呟いた。
たまたまひどい宿酔だったから、
「人はウイスキーに溺れることがある」
いくらかまぜっかえし気味にそういったところ、青年は渦を巻いて流れていく蒼い、深い川を眺め、しばらくして、ひとりごとのように、
「人は魂に溺れることがある」と呟やいた。(Man can drown in soul).
このさりげない、慣用語句のようなさりげない一言とその青年の声は、いつまでも耳にのこって消えない。
この一言のために一章を設け、その章の最後に銘刻として残したいとまで思う耳の知恵であるが、たまたまここに書いておくのである。書鬼の憂鬱とした発作も精神病理学的症候でないのならば”魂”に溺れた結果であったと思いたいのであり、まだ泳ぎ方もよくわかっていない若年の咳き込みであったとおもいたいのである。そして咳こんだのは、彼だけではなかった。誰も彼もが水を飲みこんでむせていた」
    ー開高 健 (破れた繭 耳の物語)





アクセスカウンター
 [カウンター]