◇部下の報告は玉葱みたいなものだ

「玉葱というものは八百屋の店先で見ると外側が赤茶けたり泥がついてたりする.それが玉葱だ.ところがその玉葱を部下が係長,課長にあげる時は泥のついた赤茶けた皮を剥いてこれが玉葱だといって見せる.
そして課長が部長に見せる時はまた2皮くらいむいて見せる.それをまた部長が剥いてくるから社長の私にくるときは中の芯だけの小さいものになる.それが玉葱だと信じたらとんでもない ーー」
舘林三喜男(リコー前社長)のおことば。

童話「裸の王様」の名前は誰でも知っている。しかし、アンデルセンのつけた元々のタイトルは「皇帝の新しい着物」であった。
だから「裸の王様」というのは我々も日常よく使うが、これは日本でしか通じない言葉である。が、それにしてもうまい題名を考えたものである。

そのお話を思い出してみると、
新しい着物が大好きな王様の噂を聞きつけた詐欺師が二人やった来た。私どもの作る着物は馬鹿者には見えないものだといった。それはいい、王様は考えた。「この着物を着てみせれば、相手がバカかどうかが分かるではないか」。
王様は時々部下に様子を見に行かせた。そして部下は勿論見えなかったが「立派な織物が出来ています」と王様に報告した。出来あがった着物を着て(裸のまま)パレードを行ったが、大人は見えないことを気づかれまいとした。
「王様、なにも着てないよ。素っ裸だ!」
小さな子供がいった・・・・・・・。

といったような内容である。
舘林氏が王様だったらこの話は成り立たなかった。
氏は昭和3年に内務省(後の厚生省。現在は厚生労働省)入りし、その後、東久邇内閣の総理大臣秘書、佐賀県副知事、衆議院議員等を歴任後、リコー・三愛グループ創業者市村清氏の三顧の礼により三愛石油の社長に就任。市村氏死去にともない市村氏の遺言状により、リコー社長となる。
という大変な方である。(別項の、ピーターの法則には全く支配されない珍しい方である)
舘林氏は五高時代から曹洞宗師家に学び、生涯禅の道が全てのベースになった。とはいいながら単身リコーに乗り込んでいくということは相当の覚悟と自信がなければ出来なかったと思う。
何故それが出来たか?
氏の語録を読んでこれか、と感じたものを引用する。

「人生というものは断絶した現在が連続しているのだ。これが「非連続の連続」であって、今日の続きの人生が明日ということではない。私がリコーの社長に就任したとき「腰掛けのつもりで社長になったのではない」といったのはそういうことで、非連続の連続こそ人生であり、その生活態度のなかにこそ私は人生の生きがいというものを見いだすことが出来ると信じている」

日本にもこのような傑物がいたのである。

「西郷隆盛は『天を敬い、人を愛す』と言った。私は、あえて「三愛」と言う。
 あの有名な西郷さんとくらべられたいとは思わないが、
「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」という三愛精神は、私の生涯の信念で
 ある」
      ー市村 清






アクセスカウンター
 [カウンター]

悪魔のことわざ