◇人間は彼が勉強に費やした時間に比例したバカになる

これは、悪魔様のお言葉である。  

人間は何のために勉強するのであろうか。

・出世するため
・試験で良い点を取るため
・資格を取るため
・世の中の森羅万象を理解するため
・将来を予測するため
・人より賢くなりたい

等々か?
でも、それらは真の目的が何であるかがはっきりしない。
結局の所、(誰かに・親に・会社に・学校に)押しつけられて、勉強しているだけである。
勉強のために勉強しているといっても過言ではない。

学校で算数を教わらなかったら、どうなるか?
買い物に行っても、持っている金でリンゴをいくつ買えるか判断できない。
おつりを貰ったてもそれが正しいかどうか分からない。
だから勉強が必要ということになるのだが・・・

じゃあ、あなたはリンゴを2つとミカン3つを足すと幾つになるか答えられるだろうか?。
(勿論、2+3=5である。などと答えるようでは相当重症なのだ)
これは実は大変難しい問題だと思う。
が、算数(足し算)を教わると、何も考えずに答えがでる。
それが問題である。
頭を使わないで済むのである。
脳を使わいで済むのである。
つまり、手抜きである。
だから、例えば微分方程式の本当の意味が分からなくても、解き方だけを知っている秀才が跋扈スルのことになる。

頭を使わないで、楽ができるのが勉強の成果だといえる。
優秀な大学で「勉強」して、一流企業に入社しアメリカ流マネージメントを単純に輸入し、それを教科書にして企業経営をした結果が今の日本経済の状況である。

リンゴとミカンはどうして足し算できるのか。
リンゴと電車は足し算できるのか。
リンゴと雲は足し算できるか。
できないのなら何故か。

とか
時間と距離は足し算できるか。
時間と距離は何故掛け算できるのか
リンゴとミカンは掛け算できるか

などを小学生に考えさせる。
小学生では無理なら高校・大学生に考えさせる。
あるいは、学校の先生に考えさせる。
ことが必要である。
コンピュータの世界では掛け算は単なる足し算の合計として考えるが、実際はそんな単純なものではなく、足し算と掛け算では概念が違うのである。

色々の命題を懸命に考えた古代のインド人が「ゼロ」の概念を思いついたのだ。
と悪魔は推察している。

詰め込み教育は駄目。
とは誰でもいうが、その対応策が
「ゆとり教育」というのではあまりにも情けない。


「憶えることと考えることは、全く違うことで、脳は憶えるという作業では汗を
 かかない。考えて、考えて、考え抜いてはじめて汗をかく」
   ー米長邦雄

「初手は角道を開けるとか、飛車先の歩を突くのが当たり前じゃないかと思われ
 ていますけれども、必ずしも絶対そうだとは言い切れないような気がしているん
 です」
   ー羽生善治

この将棋の達人たちのお言葉はさすがにすごい。

「古人の到達した所を目指すな
 古人の努力した所を目指せ」
     ー芭蕉
ということである。

「子供たちは疑問符の姿で入学し、終止符の姿で卒業する」
     ー著名な教育者ニール・ポストマン


「勉強の目的はなにか」と冒頭に書いたが、悪魔が言いたいことは以下のジョークで十分か。 (「仕事」を「勉強」に置き換えて読むと良い)

日本の商社マンが南の開発途上国へ行って猛然と働いている.
一方,むこうの暖かい国の人は椰子の木の下で横になって昼寝している.そして猛然と働く日本人に向かって、
「何をやっているのだ」
   「いや,仕事をしているのだ」
「仕事をするとどうなるのか」
 これは社会のためとか,会社のためとかいろいろ答えるのだろうが
「仕事をやって会社が儲るといったいどうなるのか」
   「俺の月給も上がる,地位も上がる」
「上がるとどうなるんだ」
 とどんどん問いつめられると,あやふやになる
「月給が上がると何をやるんだ」
   「まあ,別荘でも建てる」
「別荘を建ててどうするんだ」
   「土曜日の午後にはその庭で昼寝をする」
 というと
「そんなことなら,俺はもうやっているよ」
      ー森政弘 『非まじめのすすめ』


*ゆとり教育は悪魔の予言通り、ダメの烙印が押され大幅な見直しがなされることに
 なった。しかし、どのような方法を見いだすのか。
 アホの官僚が構築できるとは思えない
 (2007.12)







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