◇諸君らが奴隷であることをやめても、諸君らは、
  白人と平等にあつかわれはしないのだ 

「…なぜ諸君らの人種の人びとが(ハイチやニカラグア、コスタリカなどに)移住させられねばならないのか。…諸君とわれわれとは人種がちがうのだ。われわれ双方のあいだには、他のいかなる人種間に存在するよりも、より幅広いちがいが存在する。

 それが正しいか、間違っているかを議論する必要はない。
 …たとえ諸君らが奴隷であることをやめても、諸君らは、白人と平等にあつかわれはしないのだ。諸君らは、最良の人間としてあつかわれるところへ行け」

これはリンカーンが解放黒人を前にした「宣言(1862年)」である。
有名な「奴隷解放宣言」の約半年前のもう一つの宣言である。

奴隷解放の親とされるリンカーンは実は人種差別主義者であった。
「この戦争における私の至上の目的は、連邦を救うことにあり、奴隷制度を救うことにも、滅ぼすことにもありません。もし奴隷は一人も自由にせずに連邦を救うことができるものならば、私はそうするでしょう。そしてもしすべての奴隷を自由にすることによって連邦が救えるならば、私はそうするでしょう。………」  
         (南北戦争の目的『リンカン演説集』岩波文庫)

何故、リンカーンは、奴隷解放宣言を出したのだろうか? 
それは、南北戦争(1861〜1865)に勝利するためであった。
アメリカ南部においては、綿花栽培業には、大量の労働力を必要としていた。
その過酷な労働に耐える、アフリカからの黒人奴隷労働が導入されるようになったのである。
従って、南部にとって、黒人奴隷制度はなくてはならないものであった。
しかし、アメリカ北部においては、工業が発達しだし、やはり、安い労働力の確保が重要になってきた。
言ってみれば、南部の黒人を奴隷として持っていたい南部州とその奴隷が欲しい北部州との経済戦争が南北戦争の背景である。
「奴隷解放宣言」は南北戦争に勝利した後に行われたと思われがちだが、実際は戦争のまっただ中での宣言であった。
この宣言が功を奏し、志気の上がった北軍が南軍を蹴散らしていくのである。
リンカーンは優秀な戦略家であった。


「アメリカ民主主義なるものは、原住民を騙し、殺し、駆逐して、ではありますが、
『自由に土地を入手できる』条件の上に、黒人奴隷制を経済の基本として、初めて成
り立っていたものです。[1880年代のフランス人]トックヴィユは、その実態を、基本
的には個人主義なのであると、見抜きました。歴史的に見れば、人口の10分の1の支
配層の制度の一つであったギリシャ民主主義と共通する欺瞞に満ちた差別支配、軍事
貴族支配の一種でしかないことが明確になります。
      『亜空間通信』296号(2002/07/06)

だから、その特権階級は『白人』でなければならない。
基本的にその精神は現代も全く同様である。
そして、アメリカが世界でますます危険な国になっていくのである。


「ワシントンの小学校で、女教師が歴史の授業をやっていた。
 『我らに自由を、さもなくば死を』ーーといったのは誰でしょう?
 と生徒に質問した。誰もわからない。そうしたら日本の商社マンの子がハイと
 立って、
 『1774年、パトリック・ヘンリーがいいました』
先生が『よくできましたね』といったら、教室の後ろの方で
 『ジャップなんかやっつけろ』という声がした。
 『誰ですか、そんなことをいった人は?』
と女教師が怒ったら、その声がーー
『ハリー・トルーマン,1945年』・・」
  ー開高健 「水の上を歩く?」より。




アクセスカウンター
 [カウンター]