◇ 人間は拭く動物である

「人間は・・・・である」

というお言葉は実に便利でそれだけに色々な場面で使われている。

この表題のお言葉を紹介(作成)されたのは塩田丸男氏(ジョーク・雑学大辞典)である。
ちょっと引用してみよう。

拭く、という行為は人間だけが持っている特技である。
動物は決して拭かない。垂れ流しである。また、同じ人間でも、文化が進むにつれて、拭くことに熱心になる。
拭くという為は人類の文化のバロメーターといっていいだろう。
「拭く」文化における主役はいうまでもなく紙である。
哀王プラザホテルで、何年か前の調べだが、一年間に使用されたトイレット・ぺーパーは
八万六千四百八十三ロール、長さにすると五干十五キロメートルにもなったそうだ。
富士山の高さの千三百二十八倍だ。その年、一年間の宿泊客は三十八万四千六百五十五人だったから、頭割りにすると、一人あたり約十三メートル。よく使ったものだ。まっ白い、何も書いてないきれいな紙を、ただ、拭くためにだけこんなにたくさん、使ってしまって、もったいない、などと思うのは文化度の低い人である。もったいない、無駄なことをたくさんするのが文化というものではないか。
花のお江戸の文化の中心は吉原だったが、その吉原をささえたのも紙である。
「みすがみでふいて取るのも日千両」
吉原には一日に千両の金がおちたといわれるが、その千両、考えてみれば、みすがみで拭みすいて取ったようなものじゃないか、と皮肉った川柳である。みすがみ--漢字で書くと御簾(みすだれ)紙。簾のようにすけてみえるところから名づけられた。 
 

淡々と事実と数字を記しているだけなのだが、なぜか可笑しい。
もう少し続けよう。

近所同士にある穴でも前のほうのは上質紙で大事に拭かれたが、後ろのほうとなると、う
って変ってひどい仕打ちをうける。石、縄、棒っ切れ、など人類の歴史をふりかえってみると、実にさまざまなものが、拭くために使われたことがわかる。
ギリシャが生んだ最大の喜劇詩人アリストファネスの『福の神』という作品の中に、
「昔は石を使って拭いたけれども今ではにんにくを使う身分になった」
という一節がある。拭いたあとのにんにくはどうしたのだろうか。
洗って奴隷にでも食べさせたのかもしれない。としたら、世の中に、まずこれぐらい臭い食べものはないのではないか。
別の文献によると、占代ギリシャでは海綿で拭くのがふつうだった、とある。にんにくよりは拭きやすいだろう。しかし、使い捨てではなく、一個の海綿を共用で何力月も使用するのが習わしだった、というのが気になる。海綿は、吸湿力が抜群にいいものである。前に使った者が下痢だったりしたらどういうことになるのだろう。・・・・・・・・

ということで、段々と表題の言葉に真実みと迫力が加わるというものだ。
塩田氏に倣って、事実だけを淡々と書き加えてみよう。

・正常なウンコの水分含有率は70〜80%
 これが80%をこえると下痢便となる。

・成人男性の一回分のオシッコ 500CC。雲子 150g。

・日本のトイレットペーパ使用量は一日平均男性で3.5m、女性で12.5mにもなる。

・地球上には毎日百万トン、 一年には実に三億万トンのウンコと一千億リットルのオシッコ
 が生産されている。


「秋の暮れ 糞する犬の顔哀し」
  ー遠藤周作

などと、犬のことを笑っていられない。

だがしかし、排泄行為にはこのような有効かつ、効果的な手段としても使えるという実話がある。

「ソ連は1960年以降、中国に派遣していた技術者を一斉に引き上げはじめた。
 機械設備一切がソ連仕様だったから、まだ国際的に孤立していた中国の経済にとっては
 大打撃であった。
 このソ連人技術者達の引き上げ列車が、中ソ国境を通過する際の停車時間に、中国人が
 大挙して押し寄せ、ソ連人たちの面前で次々とズボンを下ろして尻を向け、これ見よがしに
 糞尿をたれ始めたという。
 中国では、どうやらこれが相手を侮辱するための最大最高の手段であるらしい」
     ー米原万里(魔女の一ダース)
 





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