「文学作品についての批評はとことんつきつめると、好キカ・嫌イカ、
または、イイカ・ワルイカにつきる。後の一切はたわごとである」
と言ったのはオーウェル。(らしい、と開高健氏が書いている)
開高氏は「ピカソはほんまに天才か」という題名のコラムの中でこのことばを取り上げている。
その一部を抜粋すると、
「・・・・この人は異星人並みの天才とされてその名声は不動と思われるけれど、
残念ながら小生はついに一度も体温を変えてもらうことはできなかった。
批評文を読むとことごとく天文学単位のヴオキャブラリを動員しての絶讃また
絶讃である。
それらを読むうちに何やら妙な心細さをおぽえ、誰かおなじ意見を述べるの
はいないかと、ひそかにさがすうちに、とうとうハーバート・リードが、"ピカソ
でいいのはせいぜい青の時代までである"と一刀両断してくれているのを発
見して、著名美術評論家にも正直者はいるのだナとわかり、やっと一安心で
きた。
"青の時代"の作品はこのモダン・アート・ミュージアムで現物をまざまざと見る
までもなく、直下・正確・鋭敏・丁重かつ精緻であって、そこに漂う若い悲傷は、
いわば等身大で感受させてもらえる。
しかし、それは誠実で親しみやすいマイナー・ポーエットの優れた一行であり
一作であって、"天才"や"巨人"を予感させるものは何もない。
これまでに何人かの日本入の画家や評論家に私的な会話の席で、むきつけ
に(しかし言葉は丁重を心がけて)、ほんとにピカソはいいと思うか、そう感じた
ことがあるか、もしそうなら技術なのか色価なのか、何がいいのかと、たずね
たことがある。
たいていの場合、眼を伏せるか、そらすかであって、確信こめた断言体で、
イエスと答えかえしたのは一人もいなかった。
もう一種の答えは、これまた一つのパターンした気配があるが、あれだけ一生
つづけて変貌に変貌というのはちょっとできることではない、たえまなく自己を
創造し、そのあとあとからそれを破壊し、つねに一点に安住することを拒みつづ
けるのはやっばり何かあるんだよ、ナ、というのだった」
「オールウェイズ」
よくぞ書いてくれた。
悪魔から見ればピカソの絵は単なるへたくそな作品にすぎない。
悪魔ではない眼力のない者ドモ、即ち人間でも本当は誰でもそう思っているはずである。が、誰も口に出せないだけなのである。
誰も口に出さないから、ピカソの絵はますます評価が上がることになる。
何も分からなくてもお追従で、褒めちぎる者がたくさんいるからである。
というわけで、理解できなくても、分かったような顔をしないとバカにされるとか、あるいは感激しない自分自身がが恥ずかしいといったような理由で、ピカソを賞賛するのだ。
このような傾向はたぶん、日本人が一番大きいと思われる。が、なに西欧だって似たようなものだ。
さて、ピカソの価値が下落して困るのは誰だろう、と考える。
一番目はピカソの絵を所蔵している金持ち。
二番目はやはりピカソの絵を所蔵している美術館。
三番目美術商
四番目はさんざん褒めまくった美術評論家。
彼らの価格維持に対する努力だけは認めておこう。
近い将来、美術品が大好きな宇宙人が地球に絵画を収集にくるはずだから、その時に彼らに評価してもらえばよい。
ということで、皆さんも分かったような顔をしないで、
・ピカソはへたくそ
・黒沢 明の映画なんか見たくない。
・美空ひばりはきらい。
・デカプリオなんかイモ。
・ベートーベンなんか聴きたくない。
と堂々というべきである。
「音楽は最高の芸術であるが、その音楽の批評家となるには、二つの資格がいる。
一つには音楽が解ってはならないこと。
二つには解らない癖におしゃべりをしたいこと。
このふたつをさえ兼ねることが出来たなら音楽批評家となりうる」
−薄田泣菫「茶話」
最期に(古典的ジョーク)ジョーク・・・
ある時,ピカソの家に泥棒が入った.ピカソは,捜査にやってきた警官に,
「こんな顔の男だった」と,デッサンを一枚描いて渡した.数日後,警官が捕ま
えてきたのは,箒と欠けた西洋皿,それに三角定規だった.
ー阿刀田 高「ジョークなしでは生きられない」新潮文庫より
*2003.9.3 一部追加

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