◇荷物と体は着いたのに心がまだ着かない
  それが追いついくるのを待っているのだ

ある男が空港の片隅で、スーツケース上に腰かけて蒼ざめているのでどうかしたのですかと声をかけたら、
オレは、この国に旅行に来たんだけれど、荷物と体は着いたのに心がまだ着かない。
それが追いついくるのを待っているのだ。

開高健氏が「世界はグラスのふちをまわる」で紹介している小話である。

悪魔は旅が嫌いだ。
特に団体旅行などまっぴら。
うるさいおばさん、乗り物全部に聞こえる関西弁。
考えただけでうんざりである。

米国のブーアスティンによると、観光とは本物を見るための旅というよりはイメージを求めるものであるのだという。観光客等は旅行に出かける前にガイドブックを熱心に読み、知識を仕入れてから現地を訪れ、ガイドブックに書いてあるのを確認し、満足して帰るという。
このような様子を、ブーアスティンは「疑似イベント」だと述べている。
ヨーロッパ鉄道紀行などを書いている宮脇俊三氏だと記憶しているのだが、氏は旅に出る前に一切ガイドブックを読まないようにしている、と何かの本に書いていたがさすがである。

開高健氏も旅行の名手である。したがってかような名文が書けるのである。

はじめての町にいくには夜になってから到着するのがいい。
灯に照らされた部分だけしか見られないのだからそれはちょっと仮面をつけて入っていくような気分で、事物を穴からしか眺めないことになるが、闇が凝縮してくれたものに眼は集中してそそがれる。
翌朝になって日光が無慈悲、過酷にどんな陳腐、凡庸、貧困、悲惨をさらけだしてくれても、白昼そのままである状態に入っていったときよりは、すくなくとも前夜の記憶との一変ぶりにおどろいたり、うんざりしたり、ときにはふきだしたくなったりするものである。
白昼に到着しても夜になって到着しても、遅かれ早かれ、倦怠はくるのだから、ひとかけらでもおどろきのあるほうをとりたい。
視覚は嗅覚とおなじように機敏で聡明だけれどたちまち慣れて安心してしまい、熱を減殺することしかしてくれない。
それならば一瞬の打撃があるようにして、せめて夜と昼のどんでんの効果ぐらいは愉しみ、自身を一歩下がって揶揄してもいいではないか。
そう思ったので私は時刻表を女に買ってこさせ、二度の乗換えと待機時間のたいくつ、わずらわしさがあるとしても、わざと不便な列車を選んで、夜遅くになって到着するよう工夫したのだった。
      「夏の闇」より

「旅は男の船であり、港である」
     ー開高健 「世界はグラスのふちをまわる」

「旅をすると詩人になる。
 詩人になると旅をする。
 だが、砂漠は一度訪れただけで、詩人と旅人、その両方にさせられてしまう」
     ー竹内海南江(リポーター。15年間世界を駆けめぐり、86国を訪れる)  


<小さな旅>
ユダヤ人が街道を歩いていた。向こうから馬車がやってきたので聞いた。
「シャチマジ村までは、あとどのくらいありますか?」
「そうだね、半時間くらいの道のりだよ」
「すみませんが、乗せてもらえませんか?」
「ああ、いいですとも」
半時間たっても村に着いた様子はなく、ユダヤ人は不安になってきた。
「シャチマジ村まではまだ大分ありますか?」
「そうさ、一時間くらいかな」
「えっ、さっきは半時間ていったじゃありませんか。もう半時間は走ってい
「うん、この馬車は反対の方向へ向かっているからね」
     ーユダヤのジョーク
このジョークは
「10回道を訊ねるほうが1回道に迷うよりもよい」
というこれまたユダヤのことわざを守らなかったことによる失敗である。
このことわざも、旅をする上で極めて重要な格言である。







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