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イエス様と共に歩んだ日々の生活

深佐隆英牧師

私はバプテスマを拝領して今年の12月23日で66年になります。その間多くの恵みを頂きました。1939年でした。中国戦線も泥沼化して思想統制も厳しく物資も不足がちで知っている人々の中から戦死者が出るような時代背景でした。丁度11年10ヶ月でした。学生に対する軍事訓練も激しさが増して大きな出来事が起こる前夜のような感じを持っていました。クリスマス礼拝の前、日曜学校の奉仕が終わった直後水口牧師が礼拝後受洗したらどうかこの機会を逃すと、洗礼が受けられなくなるような予感がすると強く勧められました。私は他の6名の人のような確実な信仰を持っていませんとお断りしました。イエス様に従って行く気持ちはあるかとの問いに、どのような事があろうと従う決心ですと答えたところ、それで良しとするとのお言葉で教会の方々とバスで近くの川に出かけて受洗しました。雨後の濁った水が私の上を流れその中から引き上げられた時、これで自分に死んでキリストと共に生きて行くんだとの決意が出来ました。このとき受洗できたのは神様の愛の摂理であった事に後で気がつきました。

学寮生活でしたが自習室の机上の本だての真ん中に旧新約聖書を置いてありました。部屋に来る上級生も同級生もお前はヤソか、アーメンそーめんかなど言われ、日曜日はいろいろの誘いを断り付き合いの悪い奴だと言われながらも、日曜学校のご奉仕と礼拝には出席しました。これは受洗していたからだと今にして思います。

予科4年の12月8日教練査閲の準備をしていた最中、真珠湾攻撃のニュースを聞きいよいよ来たなと、覚悟をしました。それから3年後徴兵延期が取り消され、召集され、命(みこと)兵団に編入されました。特攻基地と上陸地を守るトンネル陣地に配置され守備と陣地構築のトンネル掘りの重労働をしていました。水はなし米は椅子代わりにするほどあっても、水がない事と、空襲を避けての事で食事も限られ何時も空腹と喉の渇きに苦しめられおそらく生涯の最悪の時だとの思いから、『聖書を読みなさい、祈りなさい、讃美しなさい』との日曜学校での教えを思い出しました。

江副牧師と深佐牧師疲れ切って寝られない夜中、トイレの灯火管制のされた薄明かりで聖書を読みました。ローマ8章28「神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の為には、凡ての事相働きて益となるを我らは知る」こんなどん底がなぜ益になるんだ。そうだ祈るんだ。讃美するんだ。聖書のみ言葉が次々と与えられました。ガラテヤ5章24節「キリスト・イエスに属する者は肉と共にその情と欲とを十字架につけたり」ガラテヤ2章19・20「我は神に生きんために、律法によりて律法に死にたり。我キリストと共に十字架につけられたり、最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に生くるなり。今われ肉体にありて生くるは我を愛して我がために己が身を捨て給ひし神の子を信ずるにより生くるなり」私はこれらの御言葉によってイエス様との出会いを経験し、生きて帰るならと献身を誓いました。この三つの御言葉は、また私を聖めの恵みに預からしめたものです。

第一回教会堂の前で献身をし元住吉で開拓伝道を1954年10月に初め翌年11月から天幕教会での集会が始まりました。青年十数名でヘブル11章1「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」教団は文語訳聖書使用、私達は開拓時より口語訳使用、現在教団の公用聖書は口語訳を旗印として会堂建設に祈りつつ前進。

56年11月23日献堂式をすることのなった。1週間前喀血、医師より牧師として再起不能と告げられる。堪えました。臥して聖書を読んでいると、エステル4章16「我もし死(しぬ)べくば死べし」「わたしがもし死なねばならないのならば、死にます」によって立たせられ献堂式に参列が出来ました。開拓三年目までの主のお取り扱いを述べました。思い返すとただ感謝あるのみです。


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教会沿革

1954年 9月

11月
遠藤善教・うん経営の靴店二階での家庭集会を始動していた林異来牧師の台湾伝導にともない10月ミッション生として奉仕。
元パチンコ店を借用して、伝道所として開拓伝道を始める。
1955年 1月
4月


5月



11月
開拓伝道奉仕ミッション生として清水まち姉(経堂めぐみ教会増田牧師夫人)着任。8月に留学の為辞任して渡米。後任のミッション生として佐藤フジ子姉(現鶴見キリスト教会牧師)着任。
senreisyo.jpg礼拝出席者14名、深佐隆英が伝道師として任命され、元住吉キリスト教会として正式に開拓伝道開始。
ウイルダマス宣教師によって多摩川で8名受洗。その一人三沢史郎兄が研究中に全身火傷で召天。
8月の暑い最中の告別式には約100人の方が出席、非常な感銘を受けるとともに、教会にとっては大きな打撃であった。
中田甫弘兄を中心として青年達の路傍伝道・教会学校の働きが強力になった。
川崎市中原区木月伊勢町2158番地に23坪購入、日本ホーリネス教団名義で登記する。福音十字軍の使用済み天幕を借用して、新たに天幕教会として出発した。
1956年 6月
11月
献堂式会堂建築着工(礼拝堂9坪、二階二部屋9坪)9月竣工。
車田秋次教団総理を迎えて献堂式挙行。シェルトン宣教師(名古屋)より天幕や会堂建築に協力、オルガンを寄贈。祝辞を頂いた。
1957年 4月
金城純子姉(中田牧師夫人)着任(58年鹿児島県喜界島教会に転出)。
1958年 4月
水口虎三牧師夫妻着任。沖縄開拓で健康を害した後、元住吉で休養(59年8月召天)。牧師夫人ミキ師は慶応志木高校舎監に転出。
1959年 1月
3月
4月



5月
会堂の前の木部牧師第1回教会堂増築。
深佐牧師按手礼受領 正教師に就任。
中田牧師夫妻、伊東教会を辞して、元住吉キリスト教会着任。
周囲の方々の要望によって、サムエル愛児園開設、金丸陽子姉(仁科博光夫人)教諭として就任、幼児3人から始め、26人教諭2人となった。
木部牧師着任、伊豆方面の開拓、無牧師教会の援助にあたる。
1961年 4月
中田牧師夫妻、弘前教会に赴任。
1964年 4月
第2回会堂増築。
1966年 10月
武藤ソノ師着任。
1969年 3月
武藤ソノ師、心臓手術のため辞任。
1974年 3月
鉄骨二階建てに新築。教団委員長江副喜介牧師、教団事務長松村悦夫牧師を迎えて献堂式挙行。
1980年 3月
木部牧師按手礼受領。
1996年 3月
サムエル愛児園使命を終えて閉園。
1997年 12月
現在の会堂増改築。
1997年 1月
教会活動を再出発と位置づけ役員会を発足(遠藤信行、湯田充雄、荒木政江、高木政子、牧師で構成)
1999年 2月
8月
第1回教会総会開催。
第1回のギャザリング(小田原)。
2000年 2月
9月
第2回総会。役員会の推薦で教会生活の3年以上の教会員が男女を問わず礼拝の司会を担当。
第2回ギャザリング(北軽井沢)。
2001年 2月
9月
第3回総会、伝道のためホームページ開設(上岡、本田が担当)。
第3回ギャザリング(富士箱根)。
2002年 2月
9月
第4回総会、役員会の推薦にてPC関係担当役員を発足。
第4回ギャザリング(中軽井沢)。
2003年 2月
9月
第5回教会総会。教会住所表示変更、木月伊勢8-27。
第5回ギャザリング(熱海)
2004年 2月
9月
11月
教会正面第6回ギャザリング(那須高原)。
開拓50周年記念行事の実施。教団前役員長江副喜介牧師による記念礼拝及び祝会を行う。記念として礼拝堂正面にステンドグラスを設置。
2005年 2月
10月
11月
第7回教会総会。
深佐牧師就任50周年・木部牧師就任41周年記念会。
第7回ギャザリング(マザー牧場)。
50周年記念誌を発行。
50周年記念の写真

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