メッセージを開かれる時は必ず旧新約聖書を見てください
2017年のメッセージ
【神に出来ない事は何一つない】 ルカ1章26〜38節
父なる神様は御独り子を人とし又全人類の救い主としてこの地上に御遣わしになられる時、御両親に選ばれたのは王候貴族ではなく、一介の大工に過ぎないヨセフと田舎娘のマリアでした。実に神様のその選びは適切でした。
マタイ1章18〜25節「イエスキリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、秘かに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。自分の民を罪から救うからである』この全てのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現す為であった。・・・・・そして、その子をイエスと名付けた。マリアが身ごもっていることを知った時これを表ざたにすると旧約の掟ではマリアは死を覚悟しなければなかった。ヨセフはそれに耐えることが出来なったのでしょう。
一方神様は,ザカリヤ老夫婦を通して準備をなされました。ルカ1章5〜24節ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリヤという人がいた。その妻はアロン(祖先はモーセの兄祭司職の長)家の娘の一人で、エリサベトといった二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めを全て守り、非の打ち所がなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼等には子供がなく、二人とも既に年をとっていた。
さて、ザカリヤは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていた時、祭司職の仕来りによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことに成った。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現われ香壇の右に立った。ザカリヤはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った「恐れることはない。ザカリヤ、あなたの願いは聞き入れられた。あなた妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くに人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、葡萄酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち返らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆ろう者に正しい人の分別を持たせて、準備の出来た民を主のために用意する」そこで、ザカリヤは天使に言った。「何によって、私はそれを知ることができるのでしょうか。私は老人ですし、妻も年をとっています」天使は答えた。『私はガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝える為に遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことが出来なくなる。時がくれば実現する私の言葉を信じなかったからである』
民衆はザカリヤを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリヤはやっと出てきたけれども、話すことが出来なかった。そこで、人々は聖所でまぼろしをみたのだと悟った。ザカリヤは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終って自分の家に帰ってきた。その後、妻エリサベトは身ごもって、5ヶ月の間身を隠していた。「主は今こそ、こうして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去って下さいました」古来からユダヤ人の間では不妊の女は神の恵みをいただけないと考えていたから彼女は言ったのです。
6ヶ月目に26〜38節天使ガブリエルはナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は彼女のところに来て言った。『オメデトウ、恵まれた方、主があなたと共におられる』マリアはこのこと言葉に戸惑い、一体この挨拶は何のことかと考えこんだ。すると天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵をいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終ることはない。』マリアは天使に言った「どうしてそのような事がありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」天使は答えた『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6ヶ月になっている。神に出来ない事は何一つない』マリアは言った。『私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように』(δουλη κυριου主の女奴隷.主を拝し服従する女奴隷。ドウレー キュウリオウ)天使は去って行った。
39〜45節。神様の温かい配慮により、マリアはユダの町にエリサベトを訪ねた。挨拶するとエリサベトの胎内の子がおどった。彼女は声たからかにに言った「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。・・・・・主がおっしゃった事は必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」46節以下そこでマリヤは言った。マグニフィカートといわれるマリアの歌が述べられます。
57〜80節この出来事がマリアの信仰を固め救い主イエス様の肉の母として心ぞなえをしました。神様が肉の両親としてヨセフとマリアを選ばれたのは実に正しく最善の道でした。
聖書は正典(基準、カノンκανον)信仰生活の基準になるものです。音楽では基層的旋律と言われ、ある声部が歌いだした旋律を後続の声部が忠実に模倣しつつ進む曲で輪唱もその一つです。私達の人生も聖書にしたがって恵の旋律をあかしするものでありたいものです。
ヨハネ15章16節『あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのである。そして、あなた方を立てた。あなた方が行って実を結び、その実がいつまでも残る為であり、また、あなた方が私の名によって求めるものは何でも,父が与えて下さるためである。』私たちも主に選ばれた者として、それに相応しい実を結び、その実が残るように、主の名によって祈りつつ信仰の道を歩み続けましょう。『神様にはできないことは何一つない』神様には出来ない事は何一つありません。
【霊の結ぶ実と肉の業】 ガラテヤ5章16〜25節
私達は自由に生きるために神様に召されています。5章1節「自由を得るために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、・・・」この自由から真実の良い行為と愛の働きが生まれてくるのです。自由とは主体的です。その時正しい決断が出来ます。キリスト者の自由とは「このことをしよう」「このことはすまい」と決断できる者とされた事です。
5章13節「兄弟達、あなた方は、自由を得るために召し出されたのです。唯、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』と言う一句によって全うされるからです」主に召されて自由になった私達は、「肉の働き」をするのはよそう、「愛をもって互いに仕える」ことにしようと決断する自由を持った者とされたのです。
肉の働きは、19節〜21節に述べられたものです。これらの事は決断して行なうものではありません。畑の雑草のように、油断しているとか不決断の時に繁茂して来ます。「愛を持って互いに仕える」事とは反対です。隣人を心から愛し、これに仕える事は、決心を必要とします。祈りをもって決断しなければ出来ない事です。真実の自由とは自分行くべき道を行くことと何をするかについて決断する事です。
道徳・:倫理の土台は自由です。戦後自由主義が浸透したが変質しました。自由と愛は表裏をなしているものです。多くの人は他人を愛すると自分が自由でなくなると考えています。14節で律法の全体は、自分を愛するように隣人を愛せよと言うことの一句尽きると述べますが、律法学者の活躍した時代の教師達は旧約の律法を細かく規定し、モーセの十戒を三百六十五の禁止令と二百四十八の命令に直しました。福音書を見てもパリサイ人が度々弟子達の行為を非難してい場面を見ます。
私たちがキリストのよる自由を持った時お互いに細かいことに言い合わないで同じ方向に進むようになります。律法主義のキリスト者で口やかましい・小言の多い人は自分の生き方が律法学者のそれでないか反省する必要があります。
19節以下に、肉の働きと御霊の実について具体的に述べています。肉の業は明らかです。ジョンウエスレーは「悪霊に動かされている人は自分は聖霊によって行動しているのだと主張する。そこで悪霊による行動と聖霊による行動とは、その当人らの言葉によって判別できない。それにも拘らず、昼と夜がはっきり分かるように聖霊による働きと、悪霊による業との区別は明らかである。」と言っています。つまり見せかけや言葉で、どんなに善い事らしく振舞っても(悪い事はいつも良いことのように見せ掛けで行なわれるものです)悪い事は自然に私たちに分かるのです。霊の力によって悪は化けの皮を被ったままおれなくなるからです。
悪の働きは神様によって根こそぎ消滅されます。それに反して主の御霊は私たちを自由にし、その自由な生活を通して必ず実を実らせます。御霊の力は私達の生活の中に良い実を結ばせて下さいます。その良い実こそ律法の目標でもあります。自由なキリスト者はこれらの肉の働き退け、御霊の実を収穫することへと決断します。私たちがキリスト・イエスに属するものあるから十字架によって許され、導かれるものであればこそ出来るのです。私達の肉の思いは十字架の力によってコントロールされます。この福音の真理により、聖霊によって自由に歩むことが真のキリスト者の進む生きた道です。
【律法による献児】 ルカ2章22〜40節
出エジプト1章6〜9[ヨセフもその兄弟達も、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプト支配し、国民に警告した。・・・そこでエジプト人は、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。22節「ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め、女の子は皆生かしておけ」レビ族の家に男の子が産まれた。家族は彼をパピルスの籠に入れ葦の茂みに隠したが、皇女がその子を見つけてモーセと名付け自分の子として母親に育てさせた。
モーセは王子として最高の教育を受け、軍の司令官として多くの兵士を動かしていた。40歳の時ヘブル人を助けようとして殺人を犯し、追求を避けて、ミデアンの地に逃れた。その地でエテロの娘と結婚して、エテロの羊飼いをしていた。それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働の故にうめき、叫んだ。その助けを求める叫びを、神は聞きアブラハム、イサク、ヤコブとの契約によってイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。
彼達を助ける指導者として80年間訓練しておられたモーセを預言者ナービーとして遣わされ兄のアロンが彼に代わって語ることになりました。ファラオの前に立ちイスラエルを奴隷から救わんとして語り始めたが、王は頑なに拒みました。
神様に命により、アロンの杖を蛇とする。彼等に災いを与えイスラエルを奴隷の身より救い出す事となりました。その災いは、@7章14〜23節ナイル川の水が血に変わる。A蛙の災い。B蚋の災い。Cアブの災い。D疫病の災い。E腫れ物の患い。F雹の患い。8章26節王は「今度ばかりは間違っていた正しいのは主である、恐ろしい雷と雹はもうたくさんだ。祈ってくれ、あなたたちを去らせよう」モーセが町を出て両手を広げて主に祈った。すると雷や雹もやんだ。王は又もや心をかたくなにして、イスラエルを去らせなかった。Gイナゴの災い。王の願いで、モーセが祈ると強い西風で海に吹き飛ばされた。王は再び心を頑なにした。H暗闇の災い。三日間互いに見ることも出来なかった。彼たちが太陽神を信じていたことに対しての挑戦。王は心を頑なにして、またもや去らせなかった。10章28節、ヘブル人の地には光があった。王が「引き下がれ。二度と私の前に姿を見せないよう気をつけよ。今度会ったら、生かしておかない」と言うと、モーセは答えた。「良くぞ仰せになりました。二度とお会いしようとは思いません」。
最後の災い。11章1〜3主はモーセに言われた『私は、なおもう一つの災いをパロとエジプトに下す。その後、王はあなた方を去らせる。いや、そのときには、あなたたちを一人残らずここから追い出す。あなたは、民に告げ、男も女もそれぞれ隣人から金銀の装飾品を求めさせるが良い』。主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされた。モーセその人もパロの家臣や民に大いに尊敬を受けていた。
モーセは言った。主はこう言われた『真夜中頃、私はエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女の初子まで。又家畜の初子も全て死ぬ。大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることはない』7節「しかし、イスラエルの人々に対しては、犬ですら人にも家畜にも、うなり声を立てません。あなたたちはこれによって、主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るでしょう。あなたの家臣はすべて私のもとに下ってきて、《あなたもあなたに従っている民も皆、出て行ってください》とひれ伏して頼むでしょう。その後で私は出て行きます」そして、モーセは憤然として王のもとから退出した。
12章主はモーセとアロンに言われた2〜51節。イスラエルの民を神様の命令どおり、聖別された子羊を屠り、その血をヒソプの束を浸して、鴨居と入り口の柱に塗り翌朝まで誰も外に出てはならなかった。私は若いときここを読んでいて入り口の敷居に血を塗らなかった事は、聖なる血を土足で汚してはならないと気づき、私は主の十字架に流された血を汚していないかと慄然とした事は忘れることが出来ません。
29節真夜中になって主はエジプトの全ての初子を撃たれたが、鴨居に聖なる血が塗られているところは過ぎ越され害はなかった。エジプト中大いなる叫びが起きたので、パロハモーセとアロンを呼び出して言った。「さあ、私の民の中から出てゆくがよい、あなたたちもイスラエルの人々も、あなたたちが願っていたように行って主に仕えるがよい。・・・・・・・36節エジプト人のものを分捕り物とした。
13章1節主はモーセに仰せられた『全ての初子は聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間では初めに胎を開くものは全て主にささげなければならない・・』
ルカ2章22節〜39節・40親子は主の律法で定められたことを皆終えたので、自分達の町ガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、神の恵みに包まれていた。
出エジプトの出来事の中でイスラエルが奴隷から救い出される恵に預かったのは聖別された子羊が必要でした。鴨居と柱に塗られた血によって主の使いがその家を過ぎ越して長子を救われた。そして神様のご命令で長子は神にささげることになりました。この鴨居と二本のl柱に塗られた血は十字架に流された主の血の象徴です。これらの事が献児式の謂れです。
【信仰者が進む目標】 ヘブル11章39〜12章13節
10月31日は何の日でしょう、多くの方はハロー・ウインとお答えになります。キリスト者でも宗教改革記念日と知らない人もおられます。1517年ルターがウインテンベルグの城教会の扉に95条の論題を張り出して、ローマの教皇の免罪符販売を攻撃し、人は功績によらず信仰のみによって救われると主張して聖書を正しい信仰の唯一の基礎として信仰改革を打ち出した5百年記念日です。これを契機としてヨウロッパが近代化した事はご存知のとおりです。
ヘブル11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です」この信仰は人には本来ないものですが神様に求めると与えられるものです。イエス様は『求めなさい。そうすれば与えられます』とおっしゃいました。さらにヨハネ16章23〜24節『・・・はっきり言っておく。(アーメン アーメン αμην αμην)あなた方が私の名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなた方は私の名によっては何も願わなかった。ねがいなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされる』と具体的に言われました。
旧約の人々はその信仰の故に神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。彼たちは預言者が語る約束のメシヤ救い主を求めていたが手に入れることが出来ませんでした。11章39〜40節「この人たちは全て、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は私達の為に、さらに勝ったものを計画して下さったので、わたしたちを除いては、彼等は完全な状態に達しなかったのです。
神の一人子を人としてこの世に遣わされ、万人を救うため贖罪の十字架を信じる者に与えてくださった。その流された血によって旧約で約束された救いが実現したのです。12章1節「こういうわけで、わたしたちもまた、この様なおびただしい証人の群れに囲まれて(ネフォウス パプテュローンνεφυσ μαρτνρων証人が雲のように)私たちを囲んでいると述べています。
私達は多くの主イエス様の救いに預かった信仰の先輩たちに囲まれて見ている前で、一切の重荷と絡みつく罪とをかなぐり捨てて、私たちの人生の競争を、耐え忍んで走りぬかねばなりません。その目標は信仰の導きてであり、その完成者であるイエス様です。彼は自分の前に置かれている喜びの故に、恥をもいとわないで十字架を忍び・・・
2〜7節 私達は主の十字架によって現在約束を成就していただき完成を目指して先輩方の励ましを受けて人生の荒海を乗り越えてイエス様を目標として歩み続けるのです。この先輩方の中に懐かしい人人を見出します。私達はその方々を記念してここに集まりました。先輩方との主にある交わりと信仰を覚えて感謝します。
【キリスト者の自由】 ガラテヤ5章1〜15節
マルティン・ルターの1520年の著書”キリスト者の自由“は、宗教改革の3大著書の一つと言われています。その冒頭に、一見すると矛盾するような命題が提示されています。「キリスト者は、あらゆるもの、最も自由な主であって、何者にも隷属していない。キリスト者は、あらゆるもの、最も義務を負うている僕であって、全てのものに隷属している」とあります。簡単に言いますと信仰による律法からの自由と、その自由から行なう隣人への愛の自由な奉仕のことを述べているのです。
パウロはキリスト者の自由を述べるに当って、キリスト者は自由の女の子であることを前提として、5章1節「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。」とキリスト者の自由がキリストから与えられた恵であると述べ、再び律法主義の罠にかかって自由を失い、女奴隷の子供のように奴隷のクビキを負わされてしまう事のないようにと述べるのです。ガラテヤの人々が、現にそのような問題に直面していました。彼等がそうならないよう「しっかり立って・・・」自分の意志ではなく、自由を与えてくださったキリストを信じて信仰によって立つ事です。
自由は孤立的に得られるものではなく、他者との共鳴的・調和的生活によって得られるものです。「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さった」直訳すると「自由へと我々をキリストは自由にした」となります。キリストと共に生きるところにこそ自由があると強調されています。キリストの愛と理解に包まれて、私達の自由な生活があるのです。
自由とは本当の自分らしく生活する事です。キリストの十字架の贖いと復活に出会うことによって、本当の自分と言うものが発見されそれによって自由な生活を営むことが出来たのです。だから再び奴隷の子にならないようしっかりしなさいと勧告するのです。自由とはこれらの意味においても、われらは与えられた自由の道を歩く事です。でたらめな勝手気ままな生活をする事ではありません。この自由をコリント前6章12節「わたしたちには、全ての事が許されている。しかし、全ての事が益になるわけではない。」我が道を行くのですから、何を行なうべきか真剣に考えて行動するのです。自由で主体性を確立して自分の意志で行動するのです。
割礼はキリスト出現以前旧約時代の神の民の目印でした。キリストがおいでになったので割礼の役目は終ったのです。「愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」信仰は愛によって働くものだと言う意味です。中世期のロマ・カトリック教会はこれを「愛によって形成された信仰」となし信仰だけでは駄目だ、善行を私たちが行なうことを加えた信仰でなければならないと唱えました。この節は愛によって働くが主語です。カトリックの言う事は律法主義と同じです。「義人は信仰によって立つべし」のみ言葉に立ったルターがカトリックを改革しなければと聖書に準拠したのは当然です。
救いと義と自由は同じ意味に取れます。これらをまとめるのが愛です。ルターの「キリスト者の自由」においては、信仰による律法からの自由と、その自由から行なう隣人への愛の自由な奉仕を説きました。それが宗教改革を多くの人々に影響を与えた信仰の書物なのです。グーテンベルクの活版印刷が実用化されて、42行聖書やルターの書物などがドイツ語で出版されて宗教改革に大きな働きをしました。一般民衆が自分達の国語で読むことが出来た事は、今までラテン語のみで筆写されていて一部の人が独占していた書物特に聖書が解放された事は革命的発見でした。このことがプロテスタント信仰の広がりに多いに貢献しました。
【律法の言うことに】 ガラテヤ4章21〜31節
「律法の下にいたいと思っている人達、あなた方は律法の言うことに耳を貸さないのですか」とガラテヤの信徒の中のそういう人々に呼びかけます。モーセを通して与えられた律法は、「何々なせ」「何何してはならない」と命じるものです。律法の命令に従うものは「私はそのようにしています」「はい、私はそのような事はしません」と得意になっているのです。律法を守る事よりも、それを行なっている自分自身、神の律法を、自分がいい気持ちにする材料としているだけです。真剣に聖書を読み、祈っておれば律法の下にはいません。
当時のユダヤ人にとって聖書とは、旧約聖書であり、特に創世記から申命記までをモーセ5書として重んじていました。パウロはここで律法の中でユダヤ人が誇りにしている信仰の父であるアブラハムを引用して、律法主義者のキリスト者にその誤りを指摘するのです。
神様はアブラハムに『私はあなたに子供を与えその子孫は空の星のように多くなり、その子を通して人々の祝福の基とすると約束されました。』(創世記16章〜21章に彼の生涯が書かれています。)
周りの人々は思ったでしょう。80過ぎたアブラハムと70の妻サラの間に子が生まれるはずがない。アブラハム自身の中にも不安の気持ちに揺れていました。そのときサラの提案で彼女の奴隷ハガルを通して子を設けよと言う事で、息子イシマエルが与えられた。そして14年後にサラに息子イサクが与えられました。
22節「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビヤではシナイ山の事で、今のエルサレムに当ります。なぜなら今のエルサレムは、その子供達と共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これは私達の母です。
パウロはハガル・シナイ山・今のエルサレムと同じように定めている。これから考えると、今のエルサレムは、ユダヤ教の大本山、律法主義の本拠を指しています。今は新しいに対応してやがて過ぎ行くべきと言う意味になります。
27節「なぜなら、次のように書いてあるからです。イザヤ54章1節28節「喜べ、子を生まない不妊の女よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、多くの子を産むから、」「ところで、兄弟達、あなた方はイサクの場合のように、約束の子です。29節「けれどもあのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行なわれています。」30節『しかし、聖書には何とかいてありますか・《女奴隷とその子を追い出せ、女奴隷から生まれた子は、断じて自由の身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである》と書いてあります。要するに、兄弟達、私達は、女奴隷の子ではなく。自由の身の女から生まれた子なのです。
5章1節「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」
アブラハムは現実を見て、サラの意見を入れハガルによってイシマエルを得たのです。これは肉の思いであって、神様ガ約束なさった子ではありません。14年後サラに生まれたイサクが神様の約束の子で神の相続人です。創世記22章15節〜18節御使いは言った『わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたはこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民は全て、あなた子孫によって祝福を得る。あなたが私の声に聞き従ったからである』
人は大きな心配事があると現世的な考えに支配されやすいものです。普段は何時も神様に導きを信じていたアブラハムですが、86歳になっても子が与えられないので妻サラの言葉に従い、ハガルによってイシマエルを得ました。その結果家庭の平和が崩されました。アブラハムはその事を通して悔い改めたのでしょう。神様は約束を実行なさいました、アブラハムが百歳、サラが90歳の時、イサク《笑い》が与えられたのです。
旧約の深い意味をパウロは述べています。私たちも聖書の深い意味を知るため、旧約を読むときには新約即ちキリストの光で読み、新約を読むとき旧約の神様の語られる言葉と預言をとおしてよむのです。アブラハムの肉の思いが律法主義として教会に紛れ込みました。その彼が神様のみ言葉を信じて義とされ信仰の父とされたことを教訓として信仰生活を送りたいものです。
【なぜ逆戻りするのか】 ガラテヤ4章8〜20節
キリスト者は信仰によって義とされ、神の子とされていることを信じていても、激しい試みに打ちのめされ、この自分が神の子であると思えなくなることもあります。神に祈ることさえ出来なくなります。ローマ書8章26節「同様に、“霊”も弱い私たちを助けて下さいます。私達はどう祈るべきかを知りませんが”霊”自らが、言葉に表せないうめきを持って執り成してくださるからです」キリスト者が苦しむ時祈ることも出来ず、うめくだけです、だがそのうめきは「アバ、父よαββ hο πατηρパーテェール」と言う意味のうめきだと。マルチン・ルターは言っています。
ガラテヤ4章7節「あなた方が子である事は、神が[アッパ、父よ]と叫ぶ御子の霊を、私達の心に送ってくださった事実から分かります」私達は苦しみの極みに、お父様と囁くだけです。主はこの自分に呼びかけている哀れな者、彼の子供であるキリスト者を助けて下さるのです。なぜなら、「アバ、父よ」と我々に祈らしめ助けて下さる事は、聖霊による主ご自身のみ旨であり、御業であるからです。妻の好恵が意識を失う寸前にお父様と祈って召されました。私たちキリスト者は祈る言葉がなくとも、お父様と神様を呼びそれに応えてくださる神様の下にあります。
8節「あなた方はかって、神を知らず、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。」とキリスト・真の神を知らないときの状態を述べます。日本の知識人の多くは無宗教・無神論者であると公言しています。しかし彼達には神があります。それは大学の卒業免状です。出来るだけ有名な大学卒業の肩書き、それがあればこの世をうまく渡って行かれると母親たちは教育に目の色を変えています。教育を重んじているのではありません、免状が神様になっているだけです。形の上では無神論でも、こうゆう神々《家柄、学歴、地位、財産等》にひれ伏しています。そのために神仏を拝み自分の希望が聞き入れられるようにと金銭などをささげ熱心に祈るのです。
しかし人間が生きるにはそれらのものは必要ではありません。あれば便利ですが、真実の神様によってこそ真実に生きることができるのです。学歴や財産がなくとも人生の海の難破はありません。これらのものを絶対視するのは神でない者を神にする事です。それが偶像です。偶像は目に見えるものだけではありません。私たちに心の中にあり、神でない者を絶対化してそれに支配されている事でもあります。それが偶像です。そのことがマルクスをして、「宗教はアヘン」であると言わしめた理由の一つです。
ガラテヤの信徒に対して今は神を知り神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りに成らない支配する諸霊のもとに逆戻りし、もう一度改めてそれらの奴隷として仕えようとしているのですか、あなた方は、色々な日、月、時節、年などを守っています。又律法主義に戻ろうとしていることに対して強い警告をしています。11節「あなた方のために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなた方のことが心配です。」
17節「あの者たちがあなた方に対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分達に対して熱心にならせようとしてあなた方をキリストから引き離したいのです。」19節「私の子供達、キリストがあなた方の内に形づくられるまで、私は、もう一度あなた方を産もうと苦しんでいます」パウロは「アバ、父よ」と叫ぶ苦しみを味わい、そして祈りながらガラテヤの人々にもう一度キリストの下に戻りなさいと強く勧めているのです。
【アッパ、父よ】 ガラテヤ4章1〜9節
1954年《昭和20年》8月6日午前8時15分。広島に原子爆弾が投下され、広島全壊、続いて長崎にも投下され、多くの死傷者が出ました。大本営発表では特殊爆弾でしたが私は原子爆弾だと思いました。それは翌日出撃する学徒出身の特攻隊員から仁科研究所で試作中の原子爆弾だが、一発でロスアンジェルスを壊滅できるんだ、自分達はその時間稼ぎだと語っていたので原子爆弾だと直勘したのです。改めて戦争の悲惨さを覚え、70年守ってきた平和を護持しなければならないと決意するものです。この戦いで3百数十万の日本人の犠牲と、侵略した国の数千万人の犠牲によって得た平和であることを忘れてはなりません。
ガラテヤ書の講解説教を続けています。3章23〜24節「信仰が現れる前には、私達は律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係(訓練係。教育係パイダゴーゴスπαιδαγωγοσ)となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。25〜26節「しかし、信仰が現れたので、もはや、私達はこの様な養育係の下にはいません。あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれた神の子なのです。」
29節[あなた方は、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です]未成年の相続人は相続した全財産を所有していても、元所有者の父親が指定した期日までは、後見人に管理され、または成人した時初めて相続財産を自分の所有とすることが法律で決められています。4章3〜5節[同様に私たちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした]
6節「あなた方が子である事は、神が、『アッパ、父よ』〈Αββ hο πατηρアバ ホ パテール〉と叫ぶ御子の霊を、私達の心に送ってくださった事実からわかります。」アッパはアラム語でイスラエルの人々が社会や家庭で使っていたわが父よと言う意味です、お父さんという普通の言葉です。十字架の前夜ゲッセマネの祈りで主はマルコ14章36節『アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください.しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように』子として親しく祈られ時に、アッパは使われています。父よは改まった時に遣うギリシャ語です。叫ぶ〈κραοονクラオン〉は旧約・新約共に神様に声をあげて祈る時に使います。
9節「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」キリストへの信仰が現れるまでは私達は律法の下で監視されこの信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストに導く養育係になったのです。信仰が現れたので養育係の下から離れて、私達は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子とされたのです。そしてキリストの祝福に預かるものとされました。
私達は皆、イエス様と同じく『アッパ、父よ』と祈ることが出来るようになったのです。私達は祈る時に、「天のお父様、御名を崇めます」と祈り始めることが出来るように神の子とせられたのです。そして最後に主の名によって祈りを終えるのです。ヨハネ16章23〜24節 『はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすればあたえられ、あなたがたは喜びに満たされる』
「わが父よ、天のお父様」と神様に祈られるのは神の子とせられ神様の相続人とされたキリスト者私達の特権でり。イエス・キリストのみなで祈りを受け入れてもらえるのもキリスト者の特権です。感謝します。
【キリストに導く養育係とは】 ガラテヤ3章21〜29節
22節「しかし、聖書は全ての者を罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした」主に対する信仰が現れる前には、律法の下に監視されていたとパウロは言うのです。これは当時の一般のユダヤ人特に律法主義者にとっては思いがけない言葉でした。
イエス様はルカ18章9節以下に自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、たとえ話をなさった。一人のパリサイ人は「自分を義人と自認して他人を見下していた。自分は律法を守り行なっていたからです。神殿に行って彼は得意になって心の中で祈った。「神様、私はほかの人達のように、奪い取る者、不正な者,姦通を犯す者、又この徴税人のような人間でもないことを感謝します。私は週に二度断食しており、全収入の十分の一を献げています」パウロはこの様な律法主義者は、わたしは他の人間と違うと考えるわたしは自慢するほどきよい者でしょうかと問うのです。イエス様はマルコ12章20〜31節[『あなたは隣人を自分のように愛しなさい』この二つに勝る掟は他にはない]と律法学者に答えておられます。パリサイ人は傲慢に他人を見下す罪に陥っています。律法の中の最大のものを破っていることも知らずに、私は義人だなど思っているとは、人事ではありません、私も陥ってしまいます。
パウロは律法と私達の関係を、牢獄の監視者と囚人のようなものだと言うのです。囚人は法律を守りませんでした。監視人は、この法律の代表者として、囚人を見張っているのです。日本語では法律も律法も違う言葉ですが、聖書では両者共ノモスνομοσです。律法に対して私達はこの囚人と同じです。
私達は律法に違反している。それを逆用までしている。主の前のパリサイ人のように姦淫しないとか、献金しているとか律法の幾つかを守っているとその形を守っている事で他人を見下し、傷つけ自分は傲慢・高ぶりの罪を犯しているのです.律法は神様が与えてくださった神聖なものです。牢獄に閉じ込められても仕方ないのです。律法の刑罰ですから。
この牢獄から、監視人の見張りから自由にしてくれるものがあります。信仰がやってきて、私たちを牢獄から出してくれるのです。囚人に恩赦を与えてくれるのです。信仰と言う私達の精神状態ではありません。信仰とは牢獄の扉にお立ちになっておられるイエス・キリストに注目仰ぎ見る事です。このイエス様が罪のくびきから解き離してくださるのです。律法は監視人でなくなり律法は私達の出獄を手をとってよろこんでくれます。
23〜24節「こうして律法の下で監視され、この信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係《παιδαγωγοσパイダゴーゴス》となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。25・26節「しかし、信仰が現れたので、最早、私達はこの様な養育係のもとにはいません。あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」
民主主義国家の法律は、国民を悪人の悪の手から守るためにあります。刑法で罰する理念は教育刑です。聖書の律法は囚人を牢獄に入れて罪を自覚させ、自由を求める心を与える為に律法が監視人の役目を負うとパウロが言いますが、当時の養育係は、時には鞭を使うことも許されていて、青少年を間違った方向に行かせないように見張っていることが大きな役目でした。彼等が成人すれば養育係は必要がなくなります。
22節「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」私達は律法を自分に適応させて、イエス様を私の主であると告白する信仰を頂きましょう。
【律法と約束】 ガラテヤ3章15〜29節
ここでは律法とイエス・キリストの対照が述べられます。アブラハムは、イスラエル民族の父祖として、ユダヤ教では重要視しています。それは彼が義とされたのは信仰によれる業即ちアブラハムの信仰の功績としての業に対する報酬と考えています。しかしパウロは功績を信仰に対立する概念であると述べています。神から与えられた律法はそれを完全に守った者が義とされるとユダヤ教は考えていますが、律法を完全に守り得る者は一人もいないのでそれは呪いをもたらすものです。12節「律法の定めを果たす者はその定めによって生きる」のです。13節キリストは,わたし達のために呪いとなって私たちを律法の呪いから購いだして下さいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。律法は神様ガイスラエルを愛して正しい道をお示しになったのですが、人々は神の愛は無駄になし律法は呪いとなってしまったのです。
15節人の作った遺言《διαθηκηディアセーケー契約と訳す場合もある》でさえ、法律的に有効と成ったら、誰も無効にしたり、それに追加したりは出来ません。ところで、神様はアブラハムとその子孫に対して約束を告げられましたが、その際、多くの人を指して、子孫達(σπερηασινスペレアシン複数)にとは言われず一人の人をさして、「あなたの子孫σπερηατιスペレーティ単数」とにと言われています。キリストの事です。神様ガアブラハムに約束なさった恵みと祝福は、キリストに与えられ、イエス様をキリストと告白した者に、その信仰の故に与えられ義と認められるのです。
私達はこの主からの恵と祝福が与えられたとの信仰によって天幕教会から屋根のある会堂を目指して立ち上がったのです。そのとき与えられた信仰は、ヘブル書11章1節以下です。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です。」昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。〜40節。12章「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、全ての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者又完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなた方が、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこの様な反抗を忍耐された方のことを、良く考えなさい」
以上のみ言葉の前に、中田兄弟を中心にして、小さくとも先ず屋根のある会堂を建てるか、それとも隣の空き地を手に入れるべきか、祈りながら激しい議論がなされました。最後に私の意見をと言うことになり皆で祈って、私の意見を申し上げました。梅雨に入り天幕教会は限界に来た。隣の土地は欲しい,しかし今は小さくとも会堂が必要です。小さな2階を建てましょう。第二段階として礼拝堂を敷地いっぱい立てましょう。第三段階として主が必要となさるなら隣の土地を与えてくださるでしょう。と述べたところそれを決定として。行動に移ることになりました。1956年6月の事です。
早速心配して下さっていた、雪谷教会の役員の望月工務店の社長に相談したところ、その資金では本建築どころか仮小屋も無理だがやれるだけやりましょう、不足分は出来た時に支払ってくださいとの言葉を感謝を持って受け取り、7月に着工9月初めには礼拝が守れました。好恵の公立学校の基金からと私の友人からのできたときに返す事と無利息での借用で、工務店の支払いを済ませ、11月にお世話になったシェルトン宣教師の出席を得て、献堂式をおこないました。
それから61年になります。会堂も狭く感じるようになりました。隣の土地を与えていただき会堂を広げなければ成らないと第三段階になったと感じています。私は60年前の信仰に立ち返らねばならないと強く思っています。主が建てて下さったのですから、私達の信じるとおりになしてくださいます。61年前と同じように。
【神を信じて義とされた】 ガラテヤ3章1〜14節
ドイツのアウグスティヌス修道院の司祭でヴィッテンベルク大学の神学教授だったマルチン・ルターは神の義を求めて、聖書を詳しく学び、院長の指導により修行に励んだが疑問が増すばかりでした。ガラテヤ書の講義が終った時、「義人は信仰によって生くべし」と旧約のハバククから引照されている御言葉によって今までの疑問が解決され「95箇条の提題」をヴィッテンベルグ城教会の扉に張り出して宗教改革の運動が1517年10月31日に始まりました。
ヘブル語のセデクは旧約では正義、公義などと訳されていますが、神学的概念では、旧新約とも”義”です。神の義は旧約時代には、律法によって示されましたが、人間は誰一人、律法の遵守によって救われる者は全くないのです。新約における義は、旧約の”義“を前提とし、特にユダヤ教の〈律法による義〉に対して新しい展開を成しました。それは、イエス・キリストと十字架です。旧約の律法の行為による報いの義に対して、信仰による、神様の賜物としての義が強調されました。神様は義なるδικαοσディカイオス神様であって《神の義》は律法のうちに現れ、人間にその遵守を要求しました。もし律法を行なえば、神の恵みを頂き背反すれば罰を受けるところに神の義がありました。
《義人》Hο δικαιοσホ・ディカイオスとは、神の意思に従って行為をする者であり、その結果救いが与えられる。それは神様の賜物として与えられるのであって、自分の功績として獲得したものではありません。人間の義は神意に沿った行為により、神様から受ける恵みです。又同時に人の心の中を見て裁く義です。神様は義の神、裁く神です。
そこで神様は新しい方法、新しい義の啓示によって人を裁くのではなく、救おうとされた。それがイエス・キリストと十字架によって示された神の義です。それは人間の側の行為や功績ではなく、神の一方的な恵によって与えられるものです。キリストが人間の罪を負い、人間に代わって、自らを贖いの犠牲として献げることによって救いを成就されました。
人間は唯キリストを私の救い主と信じる信仰を持って、恵を戴くことによって、神の義、神の願いが全うされます。義なるキリストを信じることによって、人は義とせられ信仰の義認となるのです。ガラテヤ3章6節《アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた。》といわれているとおりです。)
マルチン・ルターはローマ書、ガラテヤ書、預言者ハバククにより。《義人は信仰によりて生くべし》の御言葉で救われた自覚と義認を認めました。故に乱れた当時の宗教を改革すべく立ち上がったのです。彼はローマ教会を改革しようとしたのですが受け入れられず。プロテスタント教会を発展させたのです。彼の礼拝形式も殆どカトリックと同じです。
私達一同聖書のみ言葉によって与えられる信仰を見直しましょう。そのため聖書通読を実行しましょう。ローマ1章16節〜17節。『私は福音を恥としない。福音は、ユダヤ人を始め、ギリシャ人にも、信じる者全てに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。《正しい者は(義人)信仰によって生きる》と書いてあるとおりです。』御言葉の力を信じましょう。
【イエス様の御約束】 使徒1章1〜14節
著者はルカ福音書を書いたルカです。宛名のテオピロはBC3世紀頃から使われた文学形式で『神に愛された者』(キリスト者全員を指す)の意です。ルカ(光を与える)は医者であり、ポウロの同労者であり歴史家で神学者であった。
イエス様は十字架刑の前夜ヨハネ14章〜16章の告別説教の中で、14章16『助け主(パラクレイトスπαρακλητοσ)、すなわち、父が私の名によってつかわされる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また私が話しておいたことを、全て思い起こさせるであろう』と言われました。
ルカは復活なさったイエス様が40日間確かに生きておられることを確かな事を証拠によって示し、神の国のことを語られた主イエス様。そして食事を共にしている時、彼等にお命じになった。『エルサレムから離れないで、かねて私から聞いていた父の約束を待っているが良い。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなた方は間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう』と言いなさった。ところが弟子達は旧約の思想から抜け切らず、イエス様に尋ねています。『主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか』との的外れの問いに『・・・ただ、聖霊があなた方にくだる時、あなた方は力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまでわたしの証人となるであろう』こう言い終わると、イエス様は彼等の見ている前で天にひきあげられました。彼等はオリブの丘から下ってエルサレムの屋上の間に上がった。
14節彼等はみな婦人達、特にイエスの母マリヤ、及びイエス様の兄弟達と共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。2章1節「五旬節の日が来て。みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同が座っていた家いっぱいに響き渡った。また、舌のようなものが、炎のように分かれて現われ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語りだした」。(旧約では風・息は聖霊を表す場合が多い)
6節「この物音に大勢の人が集まってきて、彼等の生まれ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、誰も彼も聞いてあっけに取られた。驚き怪しんで言った、(見よ、今話している人たちは、皆ガリラヤ人ではないかそれだのに、私たちがそれぞれ、生まれ故郷の国語を彼等から聞かされるとは、一体どうしたことか。・・・・・・ユダヤ人と改宗者、クレネ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々が私達の国語で、神の大きな働きを述べるのをきくとは、どうゆうわけだろう)」
14節ペテロが11人の者と共に立ち上がり、声を上げて人々にかたりかけた「ユダヤの人達、ならびにエルサレムに住むすべての方々、・・・・・32節このイエスを、神は甦らせた。私達は皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それを私たちに注がれたのである。この事は、あなた方が現に見聞きしている通りである。・・・・・だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなた方が十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てに成ったのである。」
人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロや外の使徒達に、「兄弟達よ、私達は、どうしたらよいのですか」と言った。するとペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなた方は聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しに預かるすべてのもの、すなわちあなたがたと、あなた方の子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」ペテロは、ほかになお多くの言葉で証しをなし、ひとびとに「この曲がった時代から救われよ」といって勧めた。そこで、彼の勧めを受け入れた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わった者が三千人ほどあった。
そして一同はひたすら、使徒達の教えを守り、信徒の交わりを成し、共にパンをさき、祈りをしていた。教会の誕生です。
聖霊降臨で教会が誕生して約二千年になりますが。現在の教団・教会は初代教会のように聖霊に導かれ信徒の愛の交わりがあるでしょうか,組織は出来ましたがそれだけで良いのでしょうか。今私たちに必要なのは聖霊の賜物を受ける事です。それが愛に満ちた真実な元住吉キリスト教会を立て直す事になるのです。
【聖霊の働き聖化】 ピリピ2章1〜11節
三位一体の神様は私たちの歴史に臨まれました。旧約聖書の時代にはヤァウェの神として父なる神様が臨まれました。父なる神様は先を見通されて、モーセをパロ王の、娘の子として40年間最高の学問と訓練を施された。その後ミディアンの地のレウエルの羊を飼う仕事をして40年間自然の中で神様と出会い、神様の命によってエジプトで奴隷として苦しみ助けを求める神の選民イスラエルを奴隷から引き出さし、約束の地へと導かせなさった。ところが人類は罪の故に神様から離れる者が多くあった。それで、
子なる神様を世に人間として遣わし彼を通して人類を救わんとなさった。ピリピ2章6節「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず。かえって、おのれをむなしゅうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず。おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」イエス様を完全な人間としてこの世に送られました。ペテロ前1章15・16「あなた方を召して下さった聖なる方にならって、あなた方もあらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。『聖書に「私が聖なるものであるから、あなた方も聖なる者になるべきである。」と述べられ私たちキリストに倣う者は、主のように聖別(hαγιοσハギオス)されなければならないと言われているのです。
このことについて、主イエス様が聖書の中で最長の告別説教をなさいました。(ヨハネ14章〜16章)17章において主が去られた後の弟子達をご心配なさり、彼達のために執り成しのお祈りをなさいました。12節『私が彼等と一緒にいた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護して、まいりました。・・・15節私がお願いするのは、彼等を世から取り去ることではなく、彼等を悪しきものから守って下さる事であります。私が世のものでないように、彼等も世のものではありません。真理によって彼等を聖別してください。あなたのみ言葉は真理であります。あなたがわたしを世につかわされたように、私は彼等を世につかわしました。・・・
又彼等が真理によって聖別されるように、彼等のため私自身を聖別いたします。 {εγω}hαγιαζω εμαυτον。{エゴー}ハギアゾオ エパウトン。イエス様の愛の力が彼達のうちになければ、世に遣わされてもその使命を果たす事は彼達にはできません。彼たちが真理(神様のみ言葉即ちイエス様ご自身)によって聖別されるように、自らを大祭司として又世の罪を取り除く神の子羊として、その罪のない完全な人間を死に渡して、ご自身を聖別なされました。
旧約において祭司は動物の犠牲の生け贄をささげる前に自分自身を聖別しました。しかし新しい契約は、罪のない大祭司イエス様が、人格的霊的な生け贄として、汚れのないご自身の命をささげご自身を聖別なさいました。それ故に弟子達が真理のみ言葉によって聖別されるのです。
私たちホーリネスの信徒はこのことを心に焼き付けなければ成りません。『彼らが真理によって聖別されるように、彼等のため私自身を聖別いたします』と主が私たちのためお祈りになってゴルゴダの丘の十字架に向って進まれたことは感謝の一言では済まされません。私自身が聖霊のバプテスマを拝領し聖別された私を、神様にささげるより他ありません。
【聖霊に教えられる私たち】 ヨハネ14頌15〜31節
教会学校の4年生の時でした。日ごろから疑問に感じていたことを、水口牧師に尋ねました。それは12弟子がイエス様と3年間も共にいたのに、イエス様の話された事もその御業の意味も分かっていなかったことと、十字架の主の前から逃げた弟子達が、急に弟子達の本来の奉仕に戻ったのはどうゆう事ですか。と問いかけたのです。「聖書にイエス様が語っておられるから聖書を読みなさい」がその答えです。聖書の疑問は聖書を読めば分かるが、常に質問に対することの答えでしたが、この度はイエス様が語られたと言われたので福音書に答えはあるなと読み始めました。
早速マタイ伝の系図で引っ掛かりました。牧師から聖書は分からないところは飛ばして先を読みなさいと言われていたので、先に進みました。マタイ・マルコ・ルカ福音書と読み進みヨハネも読み始めてもなかなか出てきません。十字架前夜の弟子達に対する告別の遺言的説教にいたり、ここになければ何処にあるんだと不安を感じながら読みすすめるとありました。私は思わず『在った』と叫びました。そして夜の10時を過ぎていましたが、教会へと走りました。扉は開いていました。私は二階に向って「牧師さん分かりました」と叫ぶと、「上にあがって来なさい」と言われたのであがりますと、テイブルの上にヨハネ14章が開かれてありました。そこで解説して下さいました。煎餅と御茶と御言葉を味わい感謝して帰宅しました。(母が開いてあった聖書の箇所を水口牧師に連絡してあったのでした)
歩きながら牧師は私に聖書のみ言葉に従う道を具体的に経験させて下さったのだと子供ながらも理解しました。これが私の生涯を神様の方へと導く道しるべとなりました。私は牧師になって以来、皆様に聖書の通読をお勧め続けました。その際分からない所で止まる事なく読み続けるようにと付け加えました。私が70数年実行した方法です。イエス様が聖霊について詳しくお話になったのは最後の説教です。
14章15〜17節『もしあなた方が私を愛するならば、私の戒めを守るべきである。私は父にお願いしよう。そうすれば父は別に助け主パラクレイトスπαρακλητοσ(弁護者・慰め主・御霊・カウンセラーとも訳す)を送って、いつまでもあなた方と共におらせて下さるであろう。これは真理の御霊である。・・・・・それはあなた方と共におり、またあなたがたのうちにいるからである。』26節『助け主、すなわち、父が私の名によってつかわされる聖霊は、あなた方に全てのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。』弟子達がイエス様の御使命、御業、語られた深い意味など、聖霊が彼達に臨むまでは、十分に理解できていませんでした。
15章26節『私が父のみもとからあなた方に遣わそうとしている助け主、即ち、父のもとから来る真理の御霊が下る時、それは私について証しをするであろう。あなた方も、初めから私と一緒にいたのであるから、あかしをするのである』イエス様と3年も一緒にいた弟子達は聖霊に教えられなければ真理もイエス様のことも知ることができなかったのです。
聖書もイエス様のみ言葉も人間の知恵では深く知る事は、不可能である事はよくわかりました。16章7〜13節『私が去って行くことは、あなた方の益になるのだ。私が去って行かなければ、あなた方のところには助け主は来ないであろう。・・・・・』『真理の御霊が来る時には、あなた方をあらゆる真理に導いてくれるであろう・・・・』
主イエスのお招きに応じ、全てを捨てて従い、3年間も共に歩んだ12弟子達がイエス様のみ業、語られた意味も深く理解できなかったのは人間には無理からぬことでした。彼たちが聖霊に教えられ導かれて始めてイエス様の十字架・復活等御使命が分かったのです。聖霊降臨日を境として彼たちは変わり真理の道を歩み始めたのです。
私は牧師からイエス様のことばを知るには聖書読むことだと示され、福音書を読み始めたとき、聖霊がヨハネ14章〜17章を教示されました。それ以来聖書は自分の知恵で読むのではなく、祈りつつ御霊に導かれるように注意しています。(テモテ第二 3章16節〜17節 (『聖書は、全て神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良い業に対して十分な準備が出来て、完全に整えられた者になるのである』)さもなければ、主の再臨のときキリストの前に立つことができません。歯噛みして悔しがっても手遅れです。私たちは聖霊を求め、聖霊に導かれた日々を送らねばなりません。
【私の名によって願いなさい】 ヨハネ14章13〜31節
生物の中で人間だけが祈る慣習を持っています。1テサロニケ5章23節「どうか、平和の神ご自身が、あなた方を全くきよめて下さるように、また、あなたがたの霊πνευμαプニュウマと心φυχηプシュケとからだσωμαソーマとを完全に守って、私達の主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にしてくださるように」。霊と心とからだについては機会をみて述べます。
心の世界と体は動物のレベルです。人間は万物の霊長と言われているように霊的存在です。祈ることができるのは霊を備えている人間しか出来ない行為です。他の生物は心と体を持つのみです。蛇足ですが神の国には動物は一匹もいません。
教会に何年通っても祈りは聞かれませんとの嘆きの声を、60年余りの牧会生活で数多く聞かされました。信仰生活は祈祷が中心ですよと答えることが多くありました。私はいつも祈りの模範・聞かれる祈りはゲッパセネにおける主のお祈りだと信じています。
ルカ22章41〜42節ひざまずいて、祈って言われた。『父よ、み心ならば、どうぞ、この杯を私から取り除けて下さい。しかし、私の思いではなく、みこころが成るようにしてください』。43せつ・・・44節イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そしてその汗が血の滴りのように地に落ちた。45節イエスは祈りを終えて立ち上がられた。私達は汗をしたたせるほど切に祈ったでしょうか。祈って確信して立ったでしょうか。
主は明日の十字架に対する人間としての苦痛を避けたいとの願いを祈られました。しかし、私の思いでではなく御心がなるようにしてくださいと祈っておられます。私たちは汗を滴り落とすほど祈ったでしょうか。自分の願いだけでなくそれ以上に神のみこころが成されるように祈ったしょうか、祈りの神聖な場で神様を召使のように自分の希望を押し付けていないでしょうか。
主は最後の説教の中で三度も述べられている御言葉があります。ヨハネ14章13節『私の名によって願う事は、何でもかなえてあげよう』。15章16節。16章23〜24節『・・・・よくよく(αμηνアーメン)あなた方に言っておく、あなた方が父に求めるものは何でも、私の名によって下さるであろう。今までは、私の名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば。与えられるであろう。そして、あなた方の喜びが満ち溢れるであろう』。と、諭されています。
イエス様を私の救い主キリストと真に信じているならば、イエス様の全人格・神性・全存在を認め信じるのです。それが主のみ名を信じ、その御名によって祈るいみです。以上のことによって神様に祈りが受け入れられる道が明らかになりました。
切に祈り主を信じて御心を成し給えと主に申し上げた祈りは必ず受け入れていただけます。直ちに、その祈りが受け入れられることも在りますが、時間を隔てて祈りが聞かれることもあります。信じて待つことが大事です。信仰生活の大事なことはこの信じて待つ事です。この待つ事を主に訓練していただくことを忘れてはなりません。
私たちが祈祷の最後に主の名前で祈る事はキリスト教の仕来りではありません。『私の名によって、求めなさい、そうすれば与えられるであろう、そして喜びが満ち溢れるであろう』とのご遺言を信じてお祈りをしめるのです。
【私は道であり 真理であり 命である】 ヨハネ14章1〜14節
私は受難節のときに、特別に強く迫る御言葉があります。ヨハネ14章〜17章の最後の説教、弟子達にたいしての執り成しのお祈りと、ルカ22章39〜46節のゲッセマネのお祈りです。
14章5節トマスはイエスに言った、「主よ何処においでになるのか、私達にはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。イエスは彼に言われた、『私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことは出来ない』
ウイルダマス師のヨハネ伝の講義の中で、この書の特徴は『私は・・・である』との主のみ言葉が多いことだとその数を言われました。これが米国流の聖書を学ぶ方法かと感心したこと鮮やかに覚えています。Εγω ειμι hη hδοσ και hη αληθεια και hη ζωη、エゴ エイミ ヘー ホドス カイ へー アレーセイア カイ へー ゾーエー。私は・・・である。道であり、真理であり、命である。エイミである。このエゴ エイミが70余りヨハネ伝にあると聞いておどろきました。
日本では神々・仏教の御本尊に至る道は幾つかあります。修行・難行苦行・善行・念仏を唱える等等。例えれば富士山頂に至るには登山口が幾つかあるが到着するのは一つそこに至るには幾つかの道があるのです。普通に言う道路はすべての道はローマに通じると言われるが、ローマ人は古代世界の土木工事の大仕事人達でした。帝国の首都ローマは四通発達の道路によって属州と繋がる一大帝国を作りました。キリスト教が急発展したのはローマ人の道路管理によること大であったと言っても良いほどです。
聖書の示す道は生活の仕方、慣習、行為、態度などに用いられています。悪の者の道、正しい者の道、平和の道、命の道、人の道、即ち人の究極の道は神を目標としていると言うのです。主は私を通して以外には誰も父にいたる事はできないと言われ、主御自身が神に至る道であると言われているのです。キリスト教は全生涯をかけて神の方向に進むのであるからその教えを唯一の道と言われているのです。ヘブル書10章19・20節「私たちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることが出来、彼の肉体なる幕をとおり、私たちのために開いて下さった新しい生きた道を通って、入ってゆくことができるのである」。とイエス様の死と復活なさったことによって開かれた神に至る道について語っています。
神に至る道を歩むものは、イエス様の十字架の道、復活の道を歩む者です。真理をいただき永遠の命に預かるのです。
【正しい者は信仰によりて生きる】 ガラテヤ3章1〜14節
「アブラハムは神を信じた。それで彼は義とみとめられた。」と旧新約聖書が語っていることを述べました。本日は聖書には登場していない人物、信仰によって義とされた宗教改革者マルチン・ルターを取り上げます。
彼は1483年鉱山業を営む、ハンス・ルターの次男として出生。父は鉱夫から身をおこし上昇志向深く、炭鉱主になった。子供達にも上を目指すよう常に要求していました。マルチンは父の願いにそって勉学に励み、1501年父の希望通りなるべくエアフルト大学に入学、哲学を学びエリトコースに乗るように見えた。父の望みは彼が法律家になることでしたのでロースクル法学校に入った。1505年家から大学に向う途中、草原で激しい雷雨に打たれ、神様に助けを求め修道士になることを誓った。彼は両親の反対にあったが大学を離れエアフルトのアウグスチヌス修道会に入った。
修道生活の中で聖書を深く読むようになり、自分の弱く小さな人間であることを自覚しました。彼は熱心に修道生活を送り祈りをささげても平安が得られず悩みの中にありました。エルフルトで神学・哲学を教えていたが、出来たばかりのウイッテンブルク大学に移って哲学と神学・聖書を教えました。彼を離れない悩みは学問・理性では神を知ることが困難であることの理解しました。
ルターの心を捉えて離さなかったのは『神の義』の思想でした。いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力しできるだけの善功を行なったとしても、神の前で義である正しいと確実に言うことが出来ない自分を見たのです。そのとき突如、光を受けたように聖書が述べる信仰によってのみ義とされる。あのハバクク2章4節・ローマ1章17節ガラテヤ3章6節『義人は信仰によって生くべし』『正しい者は信仰によって生きる』人間を義とするのは神の恵みであるとの知り信じたのです。
ルターは新しい光にあって福音・聖書を読み直す事によって、人間は義とされることを信じました。『正しいものは信仰によって生きる』かってあれほど彼を苦しめた『神の義』を見直したことによって神による平安をうることが出来たのです。
そのときイタリヤの金融業メヂイチ家の番頭テェチェルがサン・ペェトロ大聖堂建設献金として免罪符を大々的に売り込んでいました。ドイツの大衆は彼の献金箱に金貨がチャリンと音を立てた瞬間魂は天国にはいるとの弁舌さわやかに説く言葉に、民衆は大金を叩いていた。ルターはそれに反対して人間が善功によって神に義とされるという発想は間違いであるとしました。
彼は大学でガラテヤ書の講義が終った直後、1517年10月31日、95ヵ条の論題を発表して、ここに宗教改革の幕が切って落とされました。丁度そのときグーテンベルクが鋳型によって活字を鋳造し活版印刷を考案しました。最初の作品がルター訳42行聖書でした。それまではラテン語の聖書でしたので一般の人は聖書を読むことが出来ませんでした。ドイツ語での聖書を一般の人々が読めるようになったので、ルターの「信仰によってのみ人は神に義と認められる」ことを大衆は知りました。
プロテスタントの聖書による信仰がその中心となり現在に至ったのです。律法によらず信仰によった神から与えられる恵みはアブラハムの生涯だけでなく、神を信じる者すべて与えられることをルターは聖書を通して自分の経験によって証ししたのです。
【信仰の人アブラハムと共に祝福される人々】 ガラテヤ3章1〜14節
パウロは、律法を理解させる為にアブラハムを登場させます.アブラハムは諸国民の父であり、その子イサクを通してしてイスラエルの祖先です。また、子イシュマエルを通じてアラブ人の祖とされています。ユダヤ人はアブラハムを父と仰ぎ先祖としているので彼を通して、ユダヤ人の律法主義者やそれに追従するガリラヤの律法主義者に影響が強さによって語っているのです。
このアブラハムは個人的信仰に生きた人です。7節『だから信仰によって生きる人こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。8節『聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して『あなたの故に異邦人(諸国民とも訳す)は皆祝福される』と予告されたのです。彼は個人的信仰に生きた人でしたが、また、創世記22章22章17〜18節『あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に従ったからである。』と主はアブラハムに言われた。
さらにガラテヤ3章14節「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶ為であり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によってうけるためでした。6節『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。アブラハムが神を信じた事は多くありますが、二つ上げて彼が信仰の父と言われる理由を述べます。
創世記12章1〜4節主はアブラムに言われた。『あなた生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたが祝福する人を私は祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。』アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。これは大変な旅です。数千の羊を中心とした家畜とその世話をする牧童と家族、ロトの家畜と家族など、しかも何処に行くかわからづの旅です。神様の示す地へと山越え、大河を渡るのです。アブラムは神を信じていたからこそカナンの地に到着したのです。7節主はアブラムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える』アブラムは、彼に現れた主の為に、そこに祭壇を築いた。
22章1〜19節神はアブラハムを試された。神が『アブラハムよ』と呼びかけ、彼が「はい」と答えると、神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしの命じる山の一つのやまにのぼり、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向って行った。三日目にその場所に到着した。この間のアブラハムの心の中の葛藤を、キルケゴールが著書の中で述べているのを20代の時読んで、実存哲学にはまり込みました。(当時カウンセリングはロージャスの理論が中心でしたがカウンセリングを行い、実施して見ますと表面的な解決しか出来ず根本的な問題の解決に悩んでいた時、ヴィクトル・フランクルのロゴセラピー{実存分析}出会いこれを中心としてカウンセリングを行い良い結果を得ました。)
アブラハムは自問自答を繰り返すのです。人間を犠牲にささげよと命じたのは神様でなくサタンではないか、しかし確かに神様の言葉であった。神様は私の子孫を祝福すると言われたがイサクを犠牲にささげたら、神様の御約束はどうなるのだ。イサクを愛するが故に神様の心が理解できない。いや神様の御約束は間違いない等々悩んでいる内にモリヤの山に着いてしまった。
アブラハムは若者二人を残して、薪をイサクに背負わせ、自分は火と刃物を持って二人は歩いて行った。7〜12節イサクは「私のお父さん」と呼びかけ「火と薪はここにありますが、犠牲の子羊は何処にいるのですか」との問いに父は「私の子よささげ物の子羊はきっと神がそえてくださる」と三日間悩み苦しんだその信仰を告白し神に従う決心を伝えたのでしょう。イサクも父の信仰と同じように神様を信じたのです。恐らく百十歳を越えたアブラハムには少年イサクを縛り薪の上に乗せる事は不可能な事です。イサクは神様が必ずよきにして下さると、自分自身で薪の上に横たわったのでしょう。アブラハムが刃物を取り息子を屠ろうとした時。
天から主のみ使いが「その子に手を下すな、何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」彼の後ろの茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。彼は雄羊を息子の代わりに焼き尽くす献げものとしてささげた。
アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備え下さる)と名付けた。そこで人々とは今日でも「主の山に備えあり(イスラエル)と言っている。
アブラハムは神様の命によってハランの地を信仰を持って神の示す地に、出発したのが75歳、イサクをモリヤの山でささげる信仰の行為、そして百75年の生涯を終え、マクベラの洞穴に妻サラと共にイサクとイシマエルによって葬られた。
アブラハムは常に神様の声に従った。それ故に信仰によって儀とされた模範なのですパウロは律法主義者に。律法では救われないと、我らの父祖アブラハムは信仰によって義とされたと述べているのです。
私達は幸いなことに聖書が在り、聖霊の導きにより神様の御声を聞くことが出来ます。その御言葉を信じて従うものを、その信仰にとって義とされるのです。
【我キリストと共に十字架につけられたり】 ガラテヤ2章15〜21節
小学1年生の修身の教科書に「キグチコヘイハ シンデモ クチカラ ラッパヲハナシマセンデシタ」当時1年生はカタカナ2年生でひらがなを習いました。勅語・公文書・六法全書はすべて片仮名でした。2・3年後には 国語の教科書の1頁は「ススメ ススメ ヘイタイススメ」私たちのときに国定国語の教科書が改訂されて「サイタ サイタ サクラガサイタ」1年生から全学科、桜の花のように美しく潔く散れと、国の為に死ぬことが正しい生き方だと洗脳され、国のそして天皇の為に死ぬことが人生の目的とされました。当時の日本人の平均寿命は50歳でした。私たちは20・2・3歳が死ぬ時だから太く短く生きようと、お互い話し合ったものです。
20歳が徴兵年齢でしたが1944年昭和19年に18歳まで引き下げられ、私たちは卒業まで徴兵延期でしたが、それも取り消され、軍隊に入隊、トンネル陣地を補強守備していました。フィリピンのクラーク基地から日曜日以外の日には定期的に戦闘機が来て陣地を機銃掃射し、時には小型爆弾を落としますのでいつも死と隣り合わせている感じでした。脳裏の片隅にはいつも死がありました。その時でした。
「我は神に生きんために、おきてによりておきてに死にたり。我キリストとともに十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリストわが内にありて生くるなり。今われ肉体にありて生くるは、我を愛してわがために己が身を捨て給いし神の子を信ずるに由りて生くるなり。」このみ言葉を読みました。これは日曜学校2年生の時覚えた豆カードの御言葉です。意味は山里牧師の奥様の説明でなんとなく分かりました。私は陣地でポケット聖書を読んでいる時にこのみ言葉に再び出会い、私の死に対する疑問は解けました。パウロは自分の経験をはっきり語るために『我は』εγωエゴを使用しています。通常は動詞にωをつけます例えばアガパオー セオス私は神を愛すαγαπω σεοσです。
イエス様が十字架の贖いを成就なさるまでは、ガラテヤ3章23〜25節「信仰が現れる前には、私たちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、最早、この様な養育係の下にはいません。」旧約のおきてを完全に守った人のみが救われるのですが、人間には律法を完全に守ることは不可能に近い事です。
父なる神様は私たち人類を愛して御子を遣わされ、十字架の主をキリスト救い主と信じる者をお救いになったのです。パウロはその事を、『我はεγωエゴ神に生きんために、律法によって律法に死んだ』律法はキリストが来られるまでは養育係りでした。キリストが来られるまで私達の養育者であった律法に死んだ。そのことによって律法との関係がなくなり、律法の支配から離れられ、神様の支配下に置かれたことが神に生きることでした。律法によって死んだことは、キリストと共に十字架につけられた事です。私は死に直面して十字架で死んで、主と共に甦ってこのどん底の中でも生きているんだと信じることが出来たのです。
あの状態の中で神がすべてをよきになしたもう(ローマ8章20節)とはと祈りの中で問いかけた時、このみ言葉で主との出会いが出来ました。洗礼の恵にあずかった時雨上がりの濁った川の中に沈められ引き上げられた肉体の経験が信仰として生きたのです。今私が生きているのは神様の御一人子が私の為に十字架の上で血を流され肉を裂かれた。その主が私のうちで生きておられるのだと信じた時の感謝は忘れることはありません。私は死のそして今生きている意味を実感しました。
私はこのことを忘れないように毎年のように皆様に証しすると共に、兄弟姉妹が自分εγωの証しをしていただきたいと切に願っているのです。
【初めに神は天地を創造された】 創世記1章1〜5節
神の時は初めがあり終わりがあります。それを聖書は創世記に初めをヨハネ黙示録が時の終わりとして述べています。歴史は神の業であることを語るその出発点としてこの1節があるのです。歴史の序論として神がご自身の計画に従って秩序ある世界の創造を、創世記が書かれた時代の考えかたとして述べたものです。この初めと終わりは時間的なものではなく、すべての出来事の出発点を神様の御業として語っているのです。
一昨年だったと思いますが、科学者達(日本人も含まれた)が実験装置の中でヒッグス粒子が見つかったというニュースがありました。それは宇宙の誕生の時、ビックバン(大爆発)によって膨張を続ける宇宙の切つ掛けになったとする説の中です。理論物理学者達はその時多くの素粒子(17種類といわれる)が飛び出した。その素粒子の一つヒックス粒子が飛び回る質量のない素粒子を次々と捉え、質量を持った原子核となり原子・分子となり質量を持ち、やがて星が出来宇宙が出来たとする説でした。そのヒックス粒子が見つかったというのです。このヒックス粒子がなかったらあらゆる粒子は光速で飛んでしまい宇宙は存在していないのです。それゆえか学者達はヒックス粒子を神の手と呼んでいます。私はこのビックバン説を神の創造と結びつけようとは思いませんが、科学者が宇宙論から神の手といわれるヒックス粒子を発見したことに深い興味を持ちました。
理論物理学から離れ、ユダヤの祝日を述べます。ロシ・ハシ祭九月、新年を記念する。ヨム・キップール祭 贖罪の為に断食と祈りの日。スコット仮庵祭、3〜4月、荒野の放浪を偲ぶ。パサハ過越祭、エジプト脱出を記念する。シャブオット五旬節パサハの50日後、モーセの十戒を祝う。ハネカ光の祭り、ギリシャに対する勝利を祝う。プリム祭エステル記に述べられている。エステルが民族を救うために命をかけた記念日です。
ロシ・ハシ祭。新年祭には十戒を収めた神の箱を先頭にして行進行列が行なわれました。来る一年を通じて、神様ガイスラエルを統治することを表す儀式が行なわれ、その儀式の式文として創世記1章と詩篇104篇が読まれました。新年祭は時間的な新しさではなく無から世界創造がなされたその創造の新しさを祝ったのです。
新年も新聞も時間の経過で古くなります。一時的な新しさですぐ古くなります。νεοσネオス。ニュースの語源です。いつまでも変わらない新しさは、καινοσカイノス。新約聖書は新しい約束です。新年によく引用されますコリント第二の5章17節「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」もこの変わらざる新しさです。
ユダヤでの新年祭に、創世記1章が式文として読まれるのも無から創造されたものでも時間の経過で古くなっていく事を語っているのです。私たちが主によって救われ聖くされるのはキリストに在りていつまでも聖さが古びないからです。新年に当ってカイノスの信仰を確立しましょう。