生福寺再び 吉田丹兵衛碑を探して

2008年8月10日

吉田丹兵衛は菊地10代目孝古の時に暖簾分けして佐野屋丹兵衛店(佐丹店)を開いた。千葉佐倉の分家橋本文蔵(佐野屋司店)、江戸元浜町の菊地東家(淡雅の佐孝店))と並んで、佐野屋の全盛期を迎えることになる。この後の時代においても、吉田の佐野屋は、江戸小舟町、大伝馬町、下谷車坂に出店し、本家の佐野屋をしのぐまでに発展する。
淡雅は丹兵衛と文蔵を大切に思い、自ら彼らの墓誌に記した。橋本文蔵の墓所は今のところ不明だが、吉田丹兵衛の碑文は東京中央図書館にその拓本が保存されている。


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大橋淡雅の文、菊地教中の書になる吉田丹兵衛碑ぼ拓本は東京都立中央図書館に所蔵されている。マイクロフィルムからコピーしてもらったもの。拓本の元となる石碑の所在については記録がなかった。


碑文中に「葬生福寺」とあるところから、再び(実は3たび目である)宇都宮に正福寺を訪れて、吉田丹兵衛の墓を探すこととなった。

淡雅と教中の墓所から10メートルくらい離れた所に吉田家の墓所を見つけることができた。
生福寺本堂から墓苑を眺める。吉田家の墓地との位置関係が分かる。
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吉田家の墓所

丹兵衛碑文の発見

吉田家の墓所を訪ねてみると、そこに丹兵衛の墓石があった。そして、その墓石の裏面と左側面にあの拓本と同じ文章が刻まれていた。拓本の原本の発見だった。





吉田家墓所の右奥に丹兵衛の墓がある



左は拓本のコピー、右は墓誌の画像
拓本は丹兵衛の墓誌を写したものであった。
墓石の裏面から始まり、左側面との2面にわた
って墓誌が刻まれている。淡雅識、教中書に
なる

天龍院の吉田家と同じ三つ重ね松紋