夢路日記 | 大橋巻子 | |
かけまくもかしこき天皇のおほんめぐみは大空よりも高く、海原よりもふかふたとしへなくかたしけなき事と此御国に生れあひしともがらは、あふき奉りてそがをほんむくひは身をも家をもすて奉らざらんやはと、我せの君、つねづねかたらひ給ひてしを、いにし年こと國のふね入りそめて、物かふることになりてより、世の中やうやうにをたやかにしもあらすなり行につけて |
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何事も たとらぬ身にも いかならん うきめみるかと なけく頃かな なと、安からずうちなげかれはべりて、むねのみうちさわがるるにも明暮に 君が代は しづけしとのみ うたげして 遊びしむしろ しきしのぶかな |
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いかで世の中をたやかにしなして、いにしへの都のさまにもたちかへし奉りてしかなと、女のあさき心にも思ひつづくるに、ましてをとこの君は、年ころ學のまとに心ひそめて、比じりの道をも、をさをさわいためたまひければ、天の下の御為をふかうをもひはかり奉りて、かかる世の行末は、とやあらむかくやと、明暮に心をいため侍りて、夜もすがらに枕をやすういねし夜なく、うめきなげき給ひて、をのれ人数ならぬ身にはあれども、何かはかくていたづらにのみ過し侍らん、いかで御国のため、ももにひとつも心ざしを尽して、をほやけの御まつり事をすぐなる道にをもむけ奉り、萬づ民の心をもやすめてむと、やんごとなき君の御あたりに、みそかにふんし文して奉らばやの心をもひをこしつれど、いまだ筆をもえとらず、何はかりの心ざしも、えとけぬあひだに、くちさがなき世のならひとて、をほやけにいとけしからぬさかしらことをなむ、言つくもの侍りけむ、我せのきみをはじめ、早うやしなひたてし子供まで、をほやけのひとやにとらはれ侍りつるは、今年文久二とせといふむつきの十二日の夜になんありける、いとあさましうて、なみだもえ出ず、家こぞりてなげきかなしめどもかひなし、されどをもひ直して なかそらの 霞にしはし くもるとも はるのひかりの てらでやまめや すへらきの 御国ををもふ 眞こころに 天のめぐみの なからましばや なとおもひねんじて、つれなしつくりてあるに、あくる日家の調度ともたづねさぐらむとて、をほやけ人のあまた入来りて、うち外まもる人人のかずをほよそふたももたりばかりにありける、かかるひひきのけしう、江戸のくまぐままで聞えみちためれば、をほやけをはばかりて、常にしたしうとぶらひまうでこせし人だにたえて音づれなし |
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あさましさ いふばかりなし ひとこころ かかる折こそ 奥もしらるれ 山河に あらぬものから よのひとの そこのこころも くみぞしらるる かかるをりも、鶯のみ朝夕たえず庭に音づれ侍りければ たれこめて いつともわかぬ 我やどに はるをしらする うぐいすのこえ 世の人は をとづれたえし 我やどを とふもうれしき はるのうぐいす されど誠にこころざしふかく物する人は、しのびにとむらふも、はたなきにもあらずなむ、かくてきさらぎ二十日あまりの日、我をとうと教中の古さとにありしが、をなじうたがいにあひて、 |
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これさへからめられ侍りて、しばしの程に、我子は何がしの御たちへ御あづけとなり侍りぬ、何の契りにて、かく安からぬ物をもひのそふならんと、返すがえす心もくれまどひつつ、今は花の盛をもよそに聞なして、ひたやこもりにて暮しける程に、卯月の頃にもなりぬ なげきつつ 春もきのふと くれ竹の このうきふしを だれにかたらん もろともに かたりあはさん折もかな いまのうさをも むかしにはして げに古へ人の國にも、みちみちしうをこのふ人々のその代に、心ざしあはされば、さまざまのさかしらことによりて、つみうる事は、むかし今になほめづらしからぬいとためし多かなり。こたびの事も、とかく其事とりをこなふ、いうそくのをのが心の引かたにまかせて、しひてなきものぐさもをほし、てんの心なめりと、やうやうよの人もいひもてさわぐとききて さかしらの 風のふくとも くれ竹の すくなるふしの いかでをるべき ただ天てらす御神をたのみ奉らんと やほよろず 神もあはれとうけたまへ わか身にかへて いのるこころを いかでいかでと明暮いのり奉りつつ、あきらかになりなん折をまつ程に、さつきの頃にかありけん。とかく空のかきくもりて雨の音のみ軒にたえず、 いとどしく ながめふるやの さみだれは いつをかぎりに 晴れむとすらん ながめわび いとどこころも かきくれぬ いつをかぎりの さみだれの空 久しう窓の戸もおろしこめてあるほどに、からうじて昨日今日なむ明けわたして見出るにいつしか庭の浅茅に秋風の音つれ侍りてあした夕べの露も所得かほなり 花鳥の色音もわかでふる宿に 思ひもかけぬ 萩の上風 春をだに 知らで過ぎにし浅茅ふに 露置きあまる秋は来にけり 我袖はげにおとらじとこそ思うたまえしか、さるあいだにいかなる幸いにかありけんこたび同じ連なる人は十人にも余りつるに思うたまえがけず我がせの君ひとり俄かにこのぬば玉の闇の世界を出され侍りて我が息子を預かりたまへりし同じ御館にまかでにけり、さるは文月の七日といふ日になんありける、いとうれしともうれしう夢にやとたどらるるに、こはもはらいとやむ事なき御あたりのひかりにあたり侍りてと怪しき風の便りにうけたまわる。かたじけなさ、せばき袂につつみもあへず押し込めかたくて ありとだに 知られぬ草の 下露を 思ひもかけず 照らす月影 雲居もる 月の光の照らさずば むなしく消えんむくらふの露 いとうれしと思うたまへしは夢ばかりの間にて重きいたつきに伏したまひて、其の月の十日あまり二日といふにあしたの露に先立ちてぞ消えたまひつる。あさましといふも中ゝにて、物もおほえず、あかずくちをしうて、皆くれまどゐぬ。ましてわが背の君の教へを受けし人々は足ずりをしつつ、いかで同じ道にもとかなしひ嘆けどかひなし。その中にも、かの屋かたには、かねて四五人添ひ居てみあつかひ侍りしが、いとたのみかたけなる気色をみて、かくなんとみそかにつけおこせければ、むねつぶれておほけなきすぢとは思えど、いとそのびにしのびて、詣で行きて傍らにつと寄り添ひて、とかく扱ひ侍りつるに、今はといふきさみにかひなくさのみな思ひてしが、今はとまれかくまれ、あらずならん後にぞ、さわやかに身の恥をもすすがん。こたび、やむごとなき君のあらたに天が下の御まつり事申し玉ふ事となりにて侍れば、さりともおなん代のあへきさまに見なほすやうもあらじやは、今はことに思ひおく事もなし。今宵過は又のあしたの露にいかで遅れじと、さらに乱れたる心地も見へづ、つひにはかなうはなり玉ひてけり むさしのゝ 露と消え行く人よりも おくるゝ袖のやるかたぞなき 消え行くも とまるも同じ 武蔵野の 露分け衣ほすよしぞなき また はつるまで かへぬためしの ふち衣 涙にいまや 朽ちむとすらん まことや去にし年も天の下に御為にと心を尽くししものゝふの幾たりともなく、あさましうなり行きしを思へば 今はなほ さしも嘆かしかかる世に 物思ふ人は わればかりかは よそ事に 聞きてもしぼる衣手の 今は我が身の うへになりける また 御國おもふ 人の心をいかなれば しらづ顔なる やほよろづ神 いと恨めしうて、神をさへ恨み奉るべう思ひなりはべるも、かつはかしこしや。今は明け暮れに、そのかたの行ひをのみやくにて過ごしつるに其の月の二十日あまり五日といふに、からうして弟の教中も例のみたちに御預けとなり侍りつと聞くに少しは嘆きも、取り返されて慰さむとはなけれど 山松の かた枝はよしや 枯れぬとも 残る茂みを かげと頼まん と忍びつつ、かたみに消息して、たひらかに物しつるをこよなき喜びに思ひかはしつつ、ともかうもこの一人をだに、頼もしきものにして、我子どもの行く末も頼み聞こえばやと、思ひ続くるに、いかなるまがつひの祟りにか、葉月七日といふに又俄かに、闇ののしりて八日といふ曙(あかつき)に、この人さへぞ、はかなくなり侍りぬるは夢に夢見し心地のみして、口惜しう悲しき事物に似ず人々の賢こう諫めたまふを聞きて、やや乱り心地も治まりにたれど、尚うつつとは更に更に思ひもわかず 夢ならば とく覚めよかし この憂さを のちのうつつの 禍事にはせん 堰きあへぬ 涙はまだし 胸にのみ 満ちては袖の 濡れんともせず 知らざりき ともに語らん 憂き事も 我が身一つに 積もるものとは いとどあるにもあらぬ身のすくせのつたなさは、慰めむかたなけれど、またやや思ひ返して 君が為 世の為思ふ もののふの 清き心の神ぞ知るらん また おのづから うつろふよりも 吹く風に 散りてぞ花は 世にも惜しめる 今はいかに思ふともかひなき事と、我は我と思ひさましてもはべるべけれど、ふるさとにおはする母君の嘆いたまふらん程、如何にと推し量られて、あはれにも心苦しくも、いかにこしらへてか、慰め聞こえん、ただ 千代までも なほ永らへて ひこばえの 小松が末を 見そなはせ君 今よりは 根ざしもことに 生い出でん ふた葉の松の 末をこそ待て ここら物せるをだに、思したてさせたまへなど、聞こえやる物から尚折々は 駒なべて 帰る日いつと ともづれは なきも忘れて 待つかはかなさ かかるほどに、ふるさとよりとて消息あるに、とる手も心もとなうふんしめときて、涙に目も見えぬを、辿る辿るうち見れば、母君もたひらかにて、いとかしこう猛きもののふと云えども、えも及び難うありがたきまで雄々しうて、何事も世のことはりを、深う思ひとりて、物したまふに、少しは心もおちゐ侍りぬ。やうやう思ひつづくるに、誠にこの二人かくいたづらになり行きしそのもとは、ただ國のみ為をひたすらに思ひあまれる心より、さるいみじき事のさまにもなりにて侍れば、色をも香をも知る人にまかせて ももとせの 後もくちめや 香ぐはしき 名はたち花の 立ち枯れぬとも うき事は 夢となしても 留めおき 名は幾とせも さめずあらなむ また あま駆ける たまの行方は 九重の 御階のもとを 尚や守らん など、かかるはかなし事を手習のやうに、かいつけつるを、心やりにて憂き月日を過しつるままに、閏八月の二十日あまり七日といふに、からうじて事明らかにさはやぎて、我子も許され侍りて帰りまうでくるに、嬉しきものから待つ胸うちふたがりて うれしさに つけて今さら 悲しさの また立かへり 濡るる袖かな かかるにつけても、あらましかばと、口をしき事はた多かれと、とまれかくまれかう一人だにつつがなうて帰りつる悦びに、せめて慰め侍りてなほ行く末此なき人々の志をさしつくらん男の子、子ども侍れば、さりとも取り返しつべきよもあらしやばと、せめて念じて頼み思ふも、いとはかなしや 頼み来し 二木の松の 枯れしより その若はえの 末ぞ待たるる また、ある時、なき人々のここらの年月書いつけおきたまへる文どもを見あつめて、 おきて又 たれか忍ばん ながれての 世にも絶えせぬ これの水くき 流れての 世にも伝えん もののふの 濁らぬ心 水くきのあと |
※ 読みやすいように必要に応じて句読点を加え、かなを漢字変換しました。
※ 出典は菊池次郎氏刊「大橋巻子家集」昭和13年発行