悪魔のダーウィン賞
■ 石川啄木 

石川啄木は明治45年の1月が最後の正月だった。妻が病み、母まで喀血してしまった。啄木は借りらるだけの金を、借りられるだけの友から借りていた。啄木は嘘つきで見栄坊で、金田一京助に下宿代まで払ってもらいながら、たまたま5円舞い込むと、それで一円五十銭の勘定をして、つりはいらないと女中に与えるようなことをした。金田一はそれを見ながらそれを許した。
金田一は啄木から見れば神みたいな友であったが、金田一の家族にとっては啄木は疫病神みたいな存在で、金田一の妻は啄木がまた来るたびにまた奪われるかと怖気をふるった。金田一の家では啄木が没後、次第にもてはやされるのが不服でならなかった。
それはそうだろう、金田一の妻が夫から言いつかって啄木家に金を届けるのと、何と啄木は芸者を上げて騒いでいたことすらあったそうだ。
啄木は初恋の人節子と結婚したが、釧路時代からろくに働かず芸者遊びにうつつをぬかし、おまけに入れあげた芸者のことを短歌にまで書くというバカさ加減。

東京に出てきた啄木は朝日新聞社に勤めて30数円という当時の若者としてはむしろ恵まれた月収がありながら、さらに上回る浪費生活を送る。それがやはり娼館がよいが原因であった。
そして、一方では共産主義者を気取るという身勝手男。
こんな生活を送っていながら

「働けど、働けど、
 我が暮らし楽にならざり
 ぢっと手を見る 」

               『一握の砂』

といわれてもな〜

悪魔の敬愛する、山本夏彦氏は「作者は作品だけで評価されるべき。私生活はクソ。鑑賞のじゃまになるだけ」。と書いているが、特に俳句、短歌のたぐいは文章が短いだけに作者の背景を知ることが鑑賞の助けになるのである。
(啄木の場合、山本氏の説は説得力があるのだが)。

彼は明治45年に数え年27歳で亡くなったのだが、現在の金に換算すると2千万円に上る借金を残していたという。
野口英世も借金王だが、亡くなったときは一万ドル以上の遺産があったから啄木の方が偉い。

(前半の文章は山本夏彦氏『良心的』からの引用である。

(2002.6.24)

(追)

全く、偶然に古本(巻頭随筆U「文藝春秋」)を買ったら、その中に渡辺紳一郎氏の随筆('64.4)に啄木のことが出ていた。

金田一京助が語る啄木である。
先生「本郷の下宿に私と啄木が一緒にいたんですが、啄木は、しょっちゅう私に金を借りる、-本を出す時には、『我をして餓えざらしめし金田一京助君に捧ぐ』とするから金を貸せ- と、いうんです。その言葉を忘れなかったらしく、『一握の砂』を私に捧げたんでしょう」

生徒「でも、我をして餓えざらしめし、とは、なくて、その代わり、第一に宮崎大四郎さんに捧げ、先生は二の次になってるのは、どういう訳です?」
先生「あの本が出る時には、私は、ちょっと啄木と疎遠になっていたもんで、そうなったんでしょう。宮崎さんは金持で相当啄木に借りられたんでしょう。私の家では、私の留守に来て借りようとするもんで、家内が嫌いましてね……」
生徒「では奥さんも啄木を、よく知ってる郷里の方ですか?」
先生「いや、家内は東京者です。でも、なにしろ啄木が仲人だもんでね、押しかけて来たんですよ」
生徒「先生の奥様を仲人したのは啄木だったんですか?そりゃ私知りませんでした」

「生徒」は渡辺紳一郎(随筆家)で東大在学中、金田一京助に二年間アイヌ語を教わった。

「一握の砂」の巻頭に、
「函館なる郁雨宮崎大四郎君同国の友文学士花明金田一京助君」
この集を」両君に捧ぐ。…-・
とある。

こんな人がお札にならないように祈る。


                    
     


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