学とは推測の芸術だ

南淵明宏氏(東京ハートセンターセンター長)「文芸春秋4月号」
が紹介していることば。
ローマ時代の格言だという。

「熱があり、咳があり、下痢をしていて食欲がない。さて何だ?
 風邪症候群?肺炎になるかもしれないし、ギラン・バレー症候群の前兆かも?
 いや動脈硬化で腸の血管が詰まって腸の壊死が始まってもう手遅れ、数日後
 には確実に死が待っている可能性も否定できない。
 とにかく経過観察、時間が教えてくれるだろう・・・」
と氏はいう。

あらゆる可能性から、的確な病名を推測するのが医者であるという。

考えてみれば、怖い話である。
神のごとき行為を、医学学校で勉強して免許をとった人間が金をとってやっているので
ある。

南淵ドクターは外科手術などの失敗で、家族を亡くした患者から
「何がいけなかったんでしょう」
などという相談を受けると、
「過失はそんな病院を選んで手術を受けた患者側にあるというべきでしょう」
こう、答えるそうだ。

それにしても、この格言はなんとなく物足りない感がある。

いろいろ調べると、

「医学は不確実の科学であり、推測の芸術である」
   ーウィリアム・オスラー博士(19世紀のアメリカ医学の父と呼ばれる)

というのを見つけた。

オスラー博士が、前述の格言に付け足したのか、元々博士の言葉かは
不明であるが、こちらの方が納得する。

それにしても、推測するためのCTなど医療測定器具がどんどん発達するのだが、
見つけた病気を治療する装置、技術は本当に発達しているのであろうか。
せっかく難しい病名を見つけてくれたのはいいけれど、じゃ、どうして直すの?
なにか、方向性が違っているのではなかろうか。


すでに古典ともいうべき軽妙なユーモア小説、ジェローム・K・ジェロームの「ボートの三人男」の冒頭は、病気の話からはじまっている。
主人公はある日、大英博物館へ出かけてゆく。
ちょっと気分がすぐれなかったので、たぶん乾草熱だと思い、書物を借りだして、その手当をよむ。それから、なんの気なしにぺージをくると、おそろしい、悲惨な結果をもつ病気のことが書いてある。その「前駆的症状」の項を半分もよまないうちに、主人公は「おれはこいつにやられている」と考えた。
彼は恐怖のうちに凍ったようになっていたが、やがて絶望のものうさの中で、ふたたびぺージをくり「チフス」のところを開く。すると、自分が確かにチフスにかかっていることを発見する。
どうやら、かかってから何力月も気がつかないでいたようである。
それから、他にもなにか病気にやられていないかしらと、舞踏病のところを見ると、はたしてこれにもやられている。
そこで、徹底的に調べようと思いたち、病気をアルファベット順に調べだす。すると、おどろくべきことがわかった。オコリにはなりかけていることが判明した。
腎臓病は割に軽いらしかった。コレラはひどくこじれている。ジフテリヤには生れながらにかかっている。 結局、かかっていないと結論をくだすことのできる病気は、ただ一つ、膝蓋粘液腫だけであった!
われわれは、この主人公を笑ってはならぬ。
    ー北杜夫「マンボウ望遠鏡」

*こちらのページもどうぞ
 「医者という職業は、治ったものを治したと言い、 治らなければ、病気の質の悪さにする」






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