斬刑と病死

坂下門外の変に連座し、捕縛された大橋訥庵、菊池教中は出獄の後、わずかな日数で病死している。
当時の獄中生活が如何に過酷なものであったとしても、壮年期にある彼らが時を前後して相次いで病死したことには、
一抹の疑念を感じざるをえない。

桜田門外の変
斬刑=6名、病死=0名

坂下門外の変
斬刑=0名、病死=5名
桜田門外の変 坂下門外の変
有村冶左衛門 自刃 平山平介 斬死
佐野竹之介 斬死 河野顕三 斬死
鯉渕要人 自刃 河本杢太郎 斬死
広岡千子治朗 自刃 黒沢五郎 斬死
齋藤監物 重創死 川辺左次衛門 自刃
高橋多一郎 自刃 児島強介 病死
有村雄助 切腹 大橋訥庵 病死
金子孫治郎 斬刑 石黒闇斎 病死
森五六郎 斬刑 菊池教中 病死
森山繁之輔 斬刑 横田藤太郎 病死
蓮田市五郎 斬刑
黒沢忠三郎 斬刑
関鉄之助 斬刑


安政5年に始まった反幕府勢力に対する弾圧(安政の大獄)は、橋本佐内、吉田松陰など100名以上を捕縛し、うち8名を斬刑に処した。
これに対する反幕派の反撃が桜田門外の変、および坂下門外の変である。
これら、一連の事件の処断を見てみると、安政6年11月、文久1年7月に斬刑が相次いだが、文久2年5月に、関鉄之助が斬刑に処せられたのを最後に、これ以降は病死が死因とされている。

横田藤太郎 病死 文久2年6月11日
児島強介 病死 文久2年6月25日
大橋訥庵 病死 文久2年7月12日
石黒闇斎 病死 文久2年8月7日
菊池教中 病死 文久2年8月8日

文久の政変

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文久2年1月15日、坂下門外の変で負傷した老中安藤信正は、3ヵ月後の4月11日に罷免されて失脚する。
罷免の理由は、事件で受けた背中の刀傷が武士道にもとるとするもの、米国のハリスとの贈収賄。女性問題など、事件後の安藤の評判は誹謗中傷を交え、地に落ちて行った。実際には幕府内の権力闘争の結果であったのであろう
安藤と共に井伊大老亡き後の幕政の実権を握っていた老中久世広周は同年6月2日に免職。他の老中も三河岡崎藩主本田忠民が3月15日に、越後村上藩主内藤信親が5月26日にそれぞれ免職となっている。
ほとんど総入れ替えと言ってもおかしくない閣僚の相次ぐ罷免は、徳川政権の長い歴史の中でもほとんど例を見ない。これは、政変あるいは無血クーデターと受け止めることもできる。
そして、安政の大獄で謹慎を命ぜられていた福井藩主松平春嶽らが謹慎を解かれたのが文久2年4月。この後松平春嶽は幕政参与として幕政に参加するようになる。同じく蟄居謹慎を命ぜられていた一橋慶喜も赦されて将軍後見職となっている。

坂下門外の変は襲撃には失敗したが、幕府内部の政変を促す効果があった。井伊→安藤=久世と受け継がれた反幕派への弾圧が、この政変により急速に緩和されたという政治上の背景があった。このため、本来であれば当然斬首とされるべき、坂下門外の変に参画した大橋訥庵や菊池教中などが赦免の形で出獄したと思われる。

そして、6月から8月の短い間に、坂下門外の変の5名が相次いで病死しているということは何を意味しているのであろうか?

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徳川政権と謀略〜毒殺の歴史

徳川政権になって、毒を用いる暗殺と疑われる謀略は政権発足当初より多々見受けられる。

有力大名の排除
 加藤清正、福島正則→花柳病(性病)とされているが毒殺説も。
 伊達政宗毒殺未遂事件
将軍後継の争い
 二代将軍秀忠の暗殺説 三代家光の将軍就任
 八代将軍吉宗の就任に到る後継者の相次ぐ病死=毒殺説(六代家宣、七代家継)
 十四代将軍家茂の暗殺と一橋慶喜の将軍就任

天皇家の後継争い
 孝明天皇の暗殺説

以上は有名なものばかりだが、この他藩主の暗殺や巷間庶民にいたるまで、毒殺にまつわる話は枚挙に暇が無い。

安政〜文久 毒殺説の検証

渡辺喜左衛門
 内大臣三条実万の一乗寺隠宅の隣人。三条実万は日米通称条約勅許問題で、反対派の中心となり朝議の推進にあたり、また将軍後継問題では一橋慶喜の擁立を画策した。
 このため、安政の大獄が起きると落飾・謹慎を命じられ洛北一乗寺村に陰棲した。その一乗寺村で安政6年10月6日、58歳で急死、病没とされているが、、、、
 実万が病没する10日前のこと。渡辺喜左衛門は実万に贈られた菓子を相伴して毒死。幕府方が実万の暗殺を企て、その身代わりとなって渡辺が毒死したものである。実万の急死も果たして病死であったかどうか?

大橋訥庵の死因について

文久2年7月7日、出獄して宇都宮藩邸に入る。当夜より急の劇疾に襲われる。
文久2年7月12日、出獄後5日で病死。享年47歳。

菊池教中の「幽囚日記」によれば

○7月戌3日 順(訥庵)愈熱気となり陽症にて黒胎になる。この日中痛みて手を付けられずと云う。
○7月7日 順呼出し掛かりたり。病中押して出るようにと也。眞吾の引合いなるべし。
○7月8日 順出牢は病気にかかりそうろう事にては一切これなく、奉行所申し渡すは、お調べ中揚屋入り同様の心得に屋敷へ預けると申すばかりにて、何事も外には趣意なし。全く門弟中嘆願にて出そうろうには決してなく、病気にて出そうろうにてもこれ無く、全く原公厳命を以て閣老へ伝えそうろうより、にわかに慌てて巨魁を先に出しそうろうに相違いこれ無くそうろう間、跡跡は必ず近日の内ゆえ、ご安心下さるべくそうろう。
○7月13日 順蔵儀昨十二日朝五半時頃死去す。尤も今日四ツ時検使と申し来たりそうろう。」
雷公(宇都宮藩重役)出牢に相なりそうろう節、獄中並びに奉行所等にて差し出しそうろう薬は、何とか申し、断じて呑まぬようくれぐれも申し遣わすべき旨仰せ聞かされそうろうなり。御心得御用心くださるべくそうろう。

訥庵の急死の直後に、宇都宮藩の家老であった間瀬和三郎から獄中の教中に対し、幕府方からの薬は飲まぬようくれぐれも注意するようにと忠告を与えているのである。

 

「官武通紀」巻三(文久二年)より  官武通紀とは?Go

正月弟七、探索書

 大橋順蔵儀も、過る六日(文久二年七月)宇都宮へお預け相成り、七日に牢より相出られ揚屋敷へ引き取り候ところ、九日に死去致し候、右につき怪しむべき形迹(跡)これ有り候、外の訳にはこれ無く、右出牢は大原殿(勅使大原重徳)より脇坂侯(老中脇坂中務大輔)へお掛合いにて、脇坂侯より御町奉行黒川備中守殿へお達しなられ候ゆえ、順蔵病気願も直様お取り請けに相成り、出牢なられ候由、然るに七日出牢の節、町奉行所にて手当致し候とき、黒川備中守殿より暑気払いの薬遣わされ候ところ、翌八日より煩悶、九日に絶命に及び候、よって右暑気払い甚だ怪しむべしと申すことにござ候。

「逸話文庫」より 通俗教育編集会編(明治44年刊)

[大橋訥庵] 例の一服を呑まされて死す

黒川備中守(南町奉行)は順蔵に、調べの筋があるから、と云う呼び出しがある。そこで揚屋にては、名主始め、皆々「一人の呼出しは不思議。病気と云うて出ぬが善い」と云う。順蔵は流石は儒者で「病気でない者を病気と言うは、いやだ」と云うて出ました。
越前守の方には「御預け物があるから、その積もりで出でよ」と云うことで有りますから、、空駕籠をつらせて警固をつけ、留守居が出ました。
順蔵が白洲に呼び込みになりますと、与力同心が出席し、越前守留守居も呼び込み、やがて備中守が出座致しまして「大橋順蔵、病気の趣きに付、揚屋入りの格を以て、戸田越前守家来へ預け返す。その段、まかり帰り、主人に申し聞かすべし。」と留守居へ申し渡し有りて、留守居は上通りに復座す。
順蔵は下通り白洲を立たんとする時、備中守呼止め、「順蔵、手前は大いに疲れたなあ。」と云う。病気ではござりませぬ、とも言われず「はあ」と申しました。そうすると、備中守申すには「揚り屋などへ入った者は、そういう病気で疲弊も致している様子。これは、そういう者には、至ってよい薬であるから、これを遣わそうから飲め」と云うと、同心が白湯を持って来たから飲みました。
丸薬を飲まねばよろしかったが、、奉行がくれるものを飲まぬことも出来ずと、順蔵は真直ぐなる性質につき「信義をを失うから飲みました。」と云う。それから白洲を出て駕籠に乗ろうとすると「シャクリ」が出ました。
7日目まで「シャクリ」が出通しでござりましたが、、倅には教育の事、その他の事、残る事なく戒めおき、対話を止めますと、すぐ「シャクリ」が出る。始めより軽くなりましたが、話も苦しい事であるから、会う人に会い、言うべき事を云うたらば余計な事は言わぬ様に、と云うことで、寝て熟睡となると、「シャクリ」が止まる。
8日目に死去いたしました。(史談速記録新恒蔵氏)

上記はあくまでも一説にすぎませんが、毒殺とする考えには十分説得力があるように思えます。

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坂下門外の変 年譜

安政1年2月是月 1854 大橋訥庵 米艦に対する処置を論じ、主戦意見を幕府に建言す。
文久1年9月是月 1861 宇都宮藩士大橋順蔵「正順・訥庵」門人椋木八太郎「元津和野藩士・変名南八郎」を京都に遣し、議奏正親町三条実万・右近衛権少将岩倉具視等に依り、尊攘・朝廷回復の策「政権恢復秘策」を上る。
文久1年11月9日 浪士多賀谷勇「誠光元萩藩士」同尾高長七郎「弘孝武蔵本庄郷士」等、輪王寺門主を擁して兵を筑波山に挙げんと欲し、宇都宮藩士大橋順蔵「正順訥菴」同菊池介之介「教中澹如」等と謀り、密に同志を募る是日、勇等、相会して事を議す。順蔵、未だ機の熟せざるものあるを察し、之を中止せしむ
文久1年11月是月 水戸藩士野村彝之介「鼎実」・同下野隼次郎「遠明」・同住谷寅之介「信順」・同平山兵介「繁義」・宇都宮人児島強介「草臣・矯」等、密に老中安藤信行要撃の計を策す。
文久1年12月是月 水戸藩士下野隼次郎「遠明」・宇都宮藩士大橋順蔵「正順」・同菊池介之介「教中」等、相謀りて明春老中安藤信行を要撃するの策を決す。水戸藩士岩間金平「誠一」・同西丸帯刀「亮」亦之に応じ、書を萩藩士桂小五郎「孝允・後木戸準一郎」に致して成破盟約の実行を促す。
文久2年1月12日 1862 宇都宮藩士大橋順蔵「正順」等の除奸攘夷の密謀、発覚す。是日、幕府、順蔵及其子19519 次「正19519 」を捕ふ。尋で、一橋家近習山木繁三郎・佐賀藩士中野方蔵「晴虎」・宇都宮藩士松本\太郎「正凝」・同菊池介之介「教中」農横田藤太郎「昌綱・下野国真岡住」医二宮惺軒「江戸人」・商児島強介「矯・宇都宮住」・商小山鼎吉「朝弘・重遠・下野国真岡住」等を逮捕して、獄に下す。
文久2年1月15日 老中安藤信行「信正・対馬守・磐城平藩主」坂下門外に於て浪士平山兵介「細谷忠斎、水戸藩士」同黒沢五郎「吉野政介」高畑総次郎「相田千之介」小田彦三郎「浅田儀助」河野顕三「三島三郎」川本杜太郎「豊原邦之助」の襲撃を受けて傷つく。信行の従士防戦し兵介等悉く死す。
文久2年4月11日 幕府、老中安藤信正「対馬守、磐城平藩主」を罷む。
文久2年4月27日 宇都宮藩主戸田忠恕「越前守」藩儒大橋順蔵「正順」・藩士菊池介之介「教中」を藩邸預と為さんことを幕府に請ふ。
文久2年4月是月 幕府、津和野藩主亀井茲監「隠岐守」に命じて、元藩士椋木八太郎の所在を探索せしむ。
文久2年6月25日 下野人児島強介「矯、草臣」江戸の獄に痩死す。
文久2年7月7日 幕府、宇都宮藩儒大橋順蔵「正順」を出獄せしめ、藩邸預と為す。
文久2年7月12日 宇都宮藩儒大橋順蔵「正順、訥庵」藩邸に病死す。
文久2年7月24日 幕府、宇都宮藩士菊池介之介「教中」を出獄せしめ、藩邸預と為す。
文久2年8月8日 宇都宮藩士菊池介之介「教中、澹如」病死す。
文久2年8月16日 幕府、磐城平藩主安藤信正「対馬守・元老中」・関宿藩主久世広周「大和守・元老中」に致仕・謹慎を命じ、且信正の加増二万石、広周の加増一万石を没収す。
文久2年閏8月27日 幕府、一橋家近習番山木繁三郎を宥免す。
文久2年閏8月28日 幕府、宇都宮藩士の獄を断じ、岡田真吾「裕」を中追放に処し、松本\太郎「正凝」を軽追放に処し、藩地に於て蟄居せしめ、大橋19519 次「正19519 」を放免す。
慶応1年5月15日 幕府、日光東照宮二百五十回忌に依り、特に前鯖江藩主間部詮勝「下総守」・前磐城平藩主安藤信正「対馬守」・前小見川藩主内田正容「□嶺」の謹慎を釈く。
明治1年7月13日 官軍、薄磯・小名浜・湯本三道より磐城平を攻む。賊、険に拠り殊死防戦、官軍、抜く能はずして夜に及ぶ。夜半、賊、自ら城を焼いて逃る。官軍、乃ち城に入る。「時に磐城平藩主安藤信勇、美濃の別邑に在り、前藩主安藤信正、中村に脱し、尋で仙台に赴く。」
明治1年9月24日 本多忠紀、内藤政養及ひ安藤信勇の祖父信正「鶴翁」、平潟口総督の軍門に降る「時に三人、皆仙台にあり」、督府、三人に謹慎を命す。
明治1年10月20日 十月二十日、是より先、平潟口総督府、安藤信正、本多忠紀、内藤政養に命し、東京に至り謹慎して朝裁を待たしむ、是日、信正等東京に至る、大総督府、乃ち信正を藩邸に、忠紀を岡崎藩邸に、政養を延岡藩邸に幽す、尋て安藤信守、書を督府に上りて、信正の為に哀を乞ふ。(東海道戦記)
明治2年9月28日 特旨を以て前輪王寺門主入道公現親王・前征夷大将軍徳川慶喜の謹慎を宥し、、、・前磐城平藩主安藤信正の永蟄居、を宥し、、、

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坂下門外の変 事件現場見取り図 詳細見取図を開くGo

 1月15日、午前10時頃、お堀端にある安藤邸を出た行列は坂下門へ向かった。護衛と道具方50名からなる共連であった。平山の合図で6名の志士は行列に駆け寄り、安藤信正の駕籠めがけてピストルも放たれた。激しい乱闘となった。しかし、短時間で決着がついた。6名の志士は全員闘死、安藤は背中に傷を負ったが、安藤側に死者は出なかった。
 この日、志士の一人川辺佐治衛門は時間に遅れ、現場に到着したのは事件後のことであった。彼は、その後桜田門外にある長州藩邸に赴き桂小五郎と面会し、次いで自決した。その際、桂に託したのが斬奸趣意書であり、ここから世に漏れたといわれる。趣意書は栃木県芳賀郡下にも写しが多数残されており、多くの人々に読まれたことを物語っている。
(真岡市史 近世通史編より)

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斬奸趣意書

計画を実行に移す際、参加の志士はそれぞれ「斬奸趣意書」を懐に隠し持っていたという。リーダー格である平山兵介は、安藤信正の行列が襲撃位置に達するや、この斬奸趣意書を高々と掲げて行列の最前列へ走り、仲間に相図する算段であった。しかし、坂下門近辺は各大名家がまさに登城しようとしてかなりの雑踏であった。これに遮られ、平山の行動は他の仲間の視界には入っていなかったかもしれない。そして、平山がその次に取った行動は、懐から拳銃を取り出して、安藤の駕籠目がけて引き金を絞った。この銃声が合図となって、坂下門前の死闘が開始された。
襲撃同士六名、その全員が激闘の中斬死を遂げたという。それぞれの懐にあったはずの斬奸趣意書は、戦いの中で逸失され、あるいは、幕府の検死の段階で衆目から隠されたようである。
しかし、七人目の志士、川辺佐治右衛門(襲撃時間に遅刻したため)は、襲撃現場から立ち去り、その足で長州藩邸に桂小五郎を訪ねた。そして、桂に後事を託し、割腹自刃して果てたという。このとき、桂に渡された斬奸趣意書が残され、その写本が尊攘志士の間に広く伝えられたものである。
以下は、その写本の一例である。

申年三月赤心報國の輩、御大老井伊掃部頭殿を斬殺に及候事、毛頭幕府へ對し奉り候て、異心を挟候儀には之なく、掃部頭殿執政以来、自己の権威を振ひ、天朝を蔑如奉り、只管夷狄を恐怖いたし候心情より、慷慨忠直の義士を悪み、一己の威力を示さんが為に、専ら奸謀を相廻らし候體、實に神州の罪人に御座候故、右の奸臣を倒候はば、自然幕府におゐて御悔心も出来させられ、向後は天朝を尊び夷狄を悪み、國家の安危人々の向背に、御心を付させられ候事も之あるべしと存込、身命を投候て斬殺に及び候處、其後一向御悔心の御模様も相見申さず、彌御暴政の筋のみに成行候事、幕府の御役人一同の罪には候得共、畢竟御老中安藤對馬守殿第一の罪魁と申すべく候。對馬守殿井伊家執政の時より同腹にて、暴政の手傳を致され、掃部頭殿死去の後も、絶て悔悟の心之なきのみならず、其奸謀讒計は掃部頭殿よりも趨過し候様の事件多く之あり、兼て酒井若狭守殿と申合せ、堂上方に正義の御方之あり候得ば、種々無實の罪を羅織して、天朝をも同腹の小人のみに致さん事を相謀り、萬一盡忠報國の志烈敷手に餘り候族之ある節は、夷狄の力をかり、取押へるとの心底顕然にて誠に神州の賊とも申すべく、此儘に打過候ては叡慮を悩まし奉り候事は申すに及ばず幕府に於ても御失體の御事のみに成行、千古迄も汚名を受させられ候様に相成候事鏡にかけて見る如く、容易ならざる御義と存じ奉り候。此上當時の御模様の如く、因循姑息の御政事のみにて、一年送りに過させられ候はば、近年の内に天下は夷狄乱臣のものと相成候事、必然の勢に御座候故、旁以て片時も寝食を安じ難く、右は全く對馬守殿奸計邪謀を専らに致され候所より指起り候儀に付、臣子の至情黙し難く此度微臣共申合せ、對馬守殿を斬殺申候。對馬守殿罪状は一々枚挙に堪へず候へ共、今其端を挙て申候。此度皇妹御縁組の儀も、表向は天朝より下置かれ候様に取繕、公武御合體の姿を示し候得共、實は奸謀威力を以て強奪し奉り候も同様の筋に御座候故、此後必定皇妹を枢機として外夷交易御免の勅諚を推て申下し候手段に之あるべく、其儀若し相叶はざる節は密に天子の御譲位を醸し奉り候心底にて、既に和学者共に申付、廃帝の古例を調べさせ候始末、實に将軍家を不義に引入、萬世の後迄悪逆の御名を流し候様取計候所行にて、北條足利にも相越候逆謀は、我々共切歯痛憤の至りと申すべき様も之なく候。偖又外夷取扱の儀は、對馬守殿彌増慇懃丁寧を加へ、何事も彼等が申す處に随ひ、日本周海測量の儀夫々指許し、皇國の形勢悉く彼等に相教へ、近頃品川御殿山を残らず彼等に貸し遣し、江戸第一の要地を外夷共に渡し候類は、彼等を導き我國をとらしめんも同然の儀に之あり、其上外夷應接の儀は、段々指向にて密談数刻に及び、骨肉同様に親睦致候て、國中忠義憂憤の者を以て、却て仇敵の如くに忌嫌ひ候段、國賊と申すも餘りある事に御座候故、對馬守殿長く執政致され候はば、終には天朝を廃し幕府をたふし、自分封爵を外夷に請候様相成候儀明白の事にて、言語道断不届の所行と申すべく候。既に先達てシーボルトと申す醜夷に對し日本の政務に携り呉候様相頼候風評も之あり候間、對馬守殿存命にては、数年を出ずして、我國神聖の道を廃し耶蘇教を奉じて君臣父子の大倫を忘れ、利慾を尊み候筋のみに陥り、外夷同様禽獣の群と相成候事疑なし。微臣共痛哭流涕大息の餘り余儀なく奸邪の小人を殺戮せしめ、上は天朝、幕府を安んじ奉り、下は國中の萬民ども夷狄と成果候處の禍を防ぎ候儀に御座候。毛頭公邊に對し奉り異心を存候儀には之なく候間、伏て願くは、此後の處井伊安藤二奸の遺轍を御改革遊ばさせられ、外夷を擒逐して叡慮を慰め玉ひ、萬民の困窮を御救ひ遊ばされ候て東照宮以来の御主意に御基き、眞實に征夷大将軍の御職位を御勤遊ばされ候様仕り度、若も只今迄も儘にて、幣政御改革之なく候はば、天下の大小名、各幕府を見放し候て、自分自分の國のみ相固候やうに成行候は必然に之あり候。外夷取扱さへ御手に餘り候折柄に相成候て、如何御處置遊ばされ候哉、當時日本國中の人々、市童走卒迄も、夷狄を悪み申さざる者は壹人も之なく候間、萬一夷狄誅戮を名と致し旗を揚候大名之あり候はば、其方に心靡き候事疑之なく、實に危急の御時節と存じ奉り候。且、皇國の風俗は、君臣上下の大義を辨じ忠孝節義の道を守候御風習に御座候故、幕府の御處置数々天朝の叡慮に相反し候處を見受候はば、忠臣義士の輩、壹人も幕府の御為に身命を擲ち候者之あり間敷、幕府は孤立の御勢に御成果遊ばさるべく候。夫故、此度御改正の有無は、幕府の御荒廃に相係り候事に御座候故、何卒此義御勘考遊ばされ、傲慢失礼の外夷共を疎外し、神州の御國體も、幕府の御威光も相立、大小の士民迄も一心合體候て、尊王攘夷の大典を正し、君臣上下の誼を明かにし、天下と死生を倶に致し候様、御處置願度、是則臣等が身命を擲ち奸邪を誅戮して幕府諸有司に懇願愁訴する處の微意に御座候。恐惶謹言。

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