佐野屋の起源と勃興

2.佐野屋の勃興 19世紀

18世紀までに孫分家を含めて10店前後の「暖簾内」を形成するに至った佐野屋は、十代目孝古の代、新たに一分家、二別家を創設するとともに、間もなく宗家(佐治)は営業を停止した。20年後に営業を再開するが、このときに創設されたこれら3店が、江戸の孝兵衛知良(佐孝)、下総佐原の橋本文蔵(司店)、宇都宮寺町の吉田丹兵衛(佐丹)である。
これら3店が新興勢力となって以来佐野屋一統のうちで「御三家」的地位を占めたが、特に江戸に出店した佐野屋孝兵衛店=佐孝は分家という格式からも、またその富力からも最上位にあり大いに発展した。


十代目 治右衛門 字 孝古
安永5年(1776)〜文化11年(1814)戌五月十五日
吾舅様にて皆人の知る通り司店(つかさだな 佐原にありし支店)、当店、「木店(かねきだな 宇都宮にありし支店)、此三ヶ所創業の計策並に本家永久の計成就の御人也(淡雅 店教訓家格録より)

田沼兄弟政権
天明大飢饉(1783-7)
徳川家斉11代将軍となる(1787)
松平定信 寛政改革(1787〜)
文化11年甲戌(1814)5月15日卒 享年 38歳
法名 賢徳院深龍智底居士
妻冬子、鹿沼大谷氏より来り離縁となる。

後妻 宮
文化12年丁亥(1815)5月13日卒 享年 32歳
法名 富楽院融心智螢大姉
粟宮大橋英斎の女 淡雅の姉


介介君諱ハ孝古。世々宇都宮ノ商賈ニテ、佐野屋治右衛門ト称ス。其母ハ英斎君ノ妹にて、近キ親族ナリケレバ、介介君先考(淡雅知良)ヲ乞テ養子トサレタル也

大橋家から知良を迎えることで、佐野屋は新たな時代を迎える。一地方の豪商から江戸の有力商人となり、佐藤一斎や山口菅山、立原杏所、渡辺崋山、椿椿山などの儒家書画家たちと親しく往来するようになった。
淡雅知良の婿大橋訥庵と実子教中が後年著した「淡雅雑著」第3巻、「淡雅行實」の中に、淡雅の岳父孝古についての逸話が収録されている。

淡雅行實 附載より 

孝古8歳の逸話
介介(かいすけ)君。諱(いみな)は孝古。氏は菊地。通称を佐野屋治右衛門と云う。累世野州宇都宮に住せり。君の為人(ひととなり)俊爽英邁にして、義男子の聞こへあり。八歳の頃、父の盛徳院君、名主の家に用談の事ありて行かれたる時、君を携えて至られしに、君其左右にまつわりて、用談の妨げになりしかば、何となく家に帰さんとして、手簡(てがみ)を書きて渡したまい、汝は是を家に持ち行き、後刻又来たれと言いて帰されける。その書中に小児こと談話の妨げになる故に帰し遣わすなり。よき様にすかして(なだめて)家に留め置くべし、とありければ、母君則ち様々にして家に留めんとせらるるに従わず。因て書中の趣きを明らかに諭されければ、君は猶さら聴かずして、妨げになる故、再び来るなと言わば行くまじけれども、又来たれとのたまいしことゆえ、是非ともに行かんと言いて承服されず、。兎角する内、深夜にも及びければ、傍らの者にも倶々にすかして臥しめんとせしかど、父帰りたまわば、此事を聞き正し、其上ならでは寝まじとて、遂に盛徳君の帰りを待つ。過刻は何故に明白にはのたまわずして、又来たれとはのたまえるぞと詰められしかば、盛徳君大に慚謝して、こは吾が過ちなり。汝心に掛ること勿れと言われしかば、これより睡りたまいしとぞ。

孝古11歳の逸話
11歳の時、塩原の温泉に行かれし途中、作山の旅亭に宿せらる。その家の後園に竹林ありて、新筍多く生じいたるを、興ありげに抜き取りて遊びたまえり。従い行きたる吉右衛門という者それを見て、こは人の物なれば妄(みだ)りに抜きたまふな。もし盗人なりと申されては大事ならんと言て止めしに、君答えて、もし然(しか)らんには、千金にても二千金にてもこの竹林を購ひ求めんのみと言われしかば、聞くもの皆驚嘆したりしとぞ。幼稚の時より、その器局のい非凡にあられしことかくの如し。

孝古 母への孝養譚
君は早く父を失われて(君の11歳の時盛徳院君は没したまえり)母君の手に成長されしが、母君もまた女丈夫の聞へあり。(母君は粟ノ宮の英斎(大橋)君の妹なり)寡婦をもって家道を維持し、10数年の間、一毫の誤着もなくして、全く君に付属せらる。君その鞠育(きくいく=養育)の恩を懐ふて、篤く孝養を竭(つく)されければ、領主にも聞き及びたまひ、介介(かいすけ)は孝子の由しゆえ、当人に物を下されしよりも、母に賜りなば悦ぶべしとて、種々の物を賜りしこと、終身数十度なりしとど。

番頭橋本文蔵への訓導
下総の佐原に開店したる文蔵は、16歳の時より君に仕えたる者なり。嘗て上方筋へ仕入れ物に遣はされし時、尾州名古屋にて、書付を書かねばならぬ事ありしに、文蔵元来無筆なりしがば、殊の外に赤面して、慚汗(ざんかん=恥じて汗の出ること)腋をうるおしたり。帰郷の後、その事を君に語り、文字の書けぬほど、男子の恥辱はあるまじと言いければ、君それを聞きたまふて、そもそも汝は心の小さき男かな、古より名将と云われし者にも、無筆無算のの人甚だ多し。自己は無筆無算にても、その芸に達せる者を抱へて従へ行かば、絶て患とするには足らず。総て大将たらんと欲する者は、気を大きく見を高く持て、瑣細の事には目を属せず、恥辱とも思はぬ者ぞと言(のたま)ひければ、文蔵もその気象の高きに感服して、それよりはその筋に心を潜めたりとぞ。

また文蔵風と遊妓に馴染て、夜具を作りて与えざればならぬ事出来たりしが、元来潔白の性質にて、金銀を私するやうの事なき男なれば、甚だ昏惑して、如何ともせんすべなし、因て君の前に出でて、明にその始末を訴へ、己が罪を謝しければ、君熟く聞てそは是非もなき事ゆえ、何程となりとも金子持参すべし。汝が過は賞すべきことに非ざれども、その蔽ひ隠さざる心に愛でて遣すなり。何事も右の如くに明白なれば、一個の男子となることあらんと、事もなげに言ひしとぞ。その気象の豪邁快豁にあられんこと想ふべし。

文蔵と丹兵衛の両人は、君の識鑒(鑑識)にて開店を命ぜられ、各々その業を隆盛にせし者なり。詳なることは、先孝淡雅君の書れたる、二人の墓表に就て見るべし。

橋本文蔵作 狂歌二首
しんしやうは世界の物とおもふべし おのれひとりの私にすな
孫子には家業の道をひとすぢに まがらぬやうにをしへ導け
(橋本家に伝わる書幅で、淡雅が与えた双幅の画像にこの二首の狂歌が賛として記された。)

橋本文蔵出店につき、本店よりの報状
「一、其方儀是迄も勤方出精之處、猶又此度下總佐原表ニ出店致開發仕忠勤相励申度條願之通申付候、是比武門者如築一城敵地、出店成就之勲功者、一國平治之大功ニ異ならざるか、貴身之勤労無申計被察候、左候得ハ、右店成就之上ハ忠勤為報司店上ケ金十ケ内七分相納、残三分永代ニ至迄可差遣候、然候上ハ其方子孫永く支配可仕候、忠勤之報状よって如件
    文化七午年(1810)冬十月  文蔵方へ

この後、佐原の司店は8店舗を構えるまでに栄えることとなった。
--


淡雅雑著に孝古の行事が紹介されている
全文を見る
菊池介介は山葵(わさび)の如し
其頃世人の評に、菊池介介は山葵の如しと言へり。是は身の行ひ潔白にして、親疎の隔なく、衆人の不正を面折し、領主大夫と云へども、懐(おも)ふ程との事は、憚る所なく諫言せられしかば、辛きことは辛けれども、潔よく心地よし云ふ心なりとぞ。世人右の如くなれば、家内の者、上下ともに恐服せざるはなし。されども威を以て圧せらるの事はなく、常に閑暇あれば、家の中の若き者より、十四五歳の童子に至る迄、悉く招き集て、各々其意見を述べさせ、取べき説あれば、細事と云えども称誉して、速に聴従したまひしゆえ、人みな中心より悦服したりしとぞ。且人を識るの藻鑒ありて、能く其者の材器を弁別し、各々長処のみを採用せられしかば、百事行き届かずと云ことなく、僅に三十八歳にて世を蚤く(早く)せられけれども、其遺範の後裔に垂るるの所に至ては、他人の長寿を得たる者にも、遙に超へたる所あるなり。吾が児孫たらん者は、深く瞻仰して、其功徳を忘るべからず。

拡大
附載
吾先考ノ家道ヲ隆盛ニサレタルハ、固ヨリ天資非常ノナス所ト云ヘドモ、亦由テ来レル所アルニ似タリ。ソハ先考ノ父ナル英斎君モ、岳父ナリシ介介君モ、倶ニ尋常(ヨノツネ)ノ人ト云フベキニ非ズ。是レ其先考ヲ鋳陶シ出サレタル所以ナレバ、今両君ノ行事ノ一班ヲ録シテ、先考行実ノ末ニ附載シ、以テ吾児孫タル者ニ貽ス(贈る)コト左ノ如シ。

十一代目 治右衛門 榮親
安永8年(1779)〜天保5年(1834)午八月二十日
賢徳院の御弟にて皆人の知処智仁の御人也(淡雅 店教訓家格録より)

天明大飢饉(1783-7)
松平定信 寛政改革(1787〜)
異国船打払令(1825)
シーボルト事件(1828)
字榮親 又千代松、後清助又治兵衛と改め家督の後治衛門と称す。
天保五年甲午八月二十日卒 享年五十五
法名實光院秋覺淨真居士


須磨 鹿沼鈴木俊益の女
天明八年(1788)〜文政十三年(1829)庚寅四月三十日卒享年四十一
法名貞心院現阿妙照大姉

介介君ニ男子ナク、女子一人ノミナリケレバ、(即チ教中ノ母ナリ)先考に妻(とつが)セテ養子トサレタリ。然レドモ思フ所アリテ、家ヲバ弟ノ榮親君ニ譲ラレ、先考ニハ本資ヲ賜ハリテ、江戸ニ店ヲ開カシム。是レ文化十一年(1814)甲戌正月ノコトナリ。

「予は先子是を憂る事深く、長く是を子孫に示さん事を欲して自其意を述、嗚呼功成事至れりと謂へし、願くは百世の孫其意継て失する事なくむは、難きを不用して長く富貴を守るの道にも至らんと、拙き筆をも不厭なを令加筆而巳
   享和壬戌(1802)春正月 菊池治右衛門栄親」
   (出典「大橋訥庵伝」寺田剛著)

榮親には4子があり
美津(1810〜1843)
孝光(1813〜1859)
志津(1816〜1886)

美津は養子に兵吉(〜1854)を迎え、治郎兵衛家を起こし、江戸へ出店する。2代目治郎兵衛は代吉の5男重助が養子に入った。
兵吉は武州久良郡釜利谷村森兵四郎二男(現在横浜市金沢区)

孝光は本家の家督を継ぎ12代治右衛門となり、淡雅の長女作(1820〜1838 18歳で他界)を妻に迎える。

志津と婚姻し榮親の養子となった代吉は、真岡に出店し、真岡木綿の仲買を行い、江戸日本橋の淡雅と連係して、真岡木綿の取引で、一気に佐野屋は大手太物商へとのし上がる。

この代以降佐野屋はその活動舞台を江戸へと移し、淡雅が一代にして巨冨を築き上げることになる。分家、別家との連携がその原動力となった。

民子1794年生まれ、榮親1779年、淡雅1788年生まれ。
孝古は娘民子に婿淡雅をもらい、家を継がせるが、淡雅は一家をあげて江戸へ移転、分家して東家を立てる。文化11年(1814)
このとき、榮親が宇都宮本家を継いで、20年間営業を停止して、後再開したという。
十二代目 治右衛門 孝光
文化10年(1813)〜安政6年(1859)

大塩平八郎事件(1837)
蛮社の獄(1839)渡辺崋山・高野長英遭難
天保改革(1841〜)将軍吉宗・水野忠邦
ペリー来航(1853)
日米和親条約(1854)
安政大地震(1855)
安政大獄(1858)
字孝光 初めめ謙次と称す。
母は鹿沼鈴木俊益の女、名は須磨。
安政六年十一月二十四日卒享年四十六
法名 眞馨院謙徳大量居士

妻作 淡雅長女
天保八年丁酉五月二十日卒享年十八(1819〜1837)
法名 清臺院装顔幽夢大姉

12代治右衛門の時代は、江戸の淡雅が大いに栄えたころで、本家を凌ぐ成長を遂げた。この間の本家の事跡は明らかではないが、江戸の佐野屋を中心に一族が結束して商売を盛り立てて行ったものと思われる。

妻作は18歳にして亡くなり、妾の時との間に啓兵衛が生まれ、本家を継いで十三代目治右衛門となる。

十三代目 治右衛門 啓兵衛
?〜明治28年(1896)

桜田門外の変(1860)
坂下門外の変(1862)
幕末維新から大政奉還へ
明治改元(1867)
西南戦争(1877)
大日本帝国憲法公布(1889)
日清戦争(1894〜1895)
初名清吉後乕吉又は乕之助
晩年東籬と号す。初め鈴木久右衛門養子となり、後呼び戻されて家督となる。
母は妾、名は時。
法名 東籬院三岳清雅居士
明治二十八年卒(1896)

系図には法名・没年が掲載されていないが、宇都宮生福寺の墓誌に東籬院の法名があり、「東籬観吾啓兵衛 明治28年11月5日」とある。
系図では、観吾が兄弟のように記してあるが、別号であることが分かる。
啓兵衛の母は妾の時で、先代の妻作が天保8年(1837)に18歳で亡くなっていることから推察して、生年は1837年以降であろうか。
啓兵衛には次太郎という弟があり、次太郎は新潟の妓であった妾の貞を母に持つ。後に鈴木家を継ぎ鈴木久衛門と称するようになる。兄啓兵衛が鈴木家へ養子に出た後、呼び戻されて菊池本家を継いだため、その代わりとして次太郎が鈴木家へ養子に出されたものだろう。
鹿沼鈴木家との関係は、啓兵衛の父、十二代孝光の母須磨が鈴木家俊益より嫁しており、その縁によるものと思われる。

そして不思議なことに、啓兵衛の墓が正福寺に見当たらないのである。12代と14代の間にある墓石には「實成院観阿宝如大姉」と刻まれており、東離院の法名がない。没年が不明であることと合わせ十三代目については謎に包まれている。


十四代目 治右衛門 武寛
安政3年(1856)〜明治28年(1896)

字武寛 教中の次男
初名勇蔵号仲栗
明治二十八年十月二十九日卒享年40
法名 善楽院イン亭仲栗居士
「イン」は「竹かんむり」に「均」と書く。
武寛は東京の別邸で病没したという。
墓誌には「君諱武寛字仲栗小字勇蔵菊池介之介次男 出嗣宗家称治右衛門 明治二十八年十月二十九日病没於東京別邸享年四十 葬於谷中天龍院」とある。
天龍院の菊池叢墓の敷地の中、長四郎の代々墓所とは別に武寛の墓石が一基ぽつねんと佇んでいる。

教中と敬子との間には
久子 教中長女 初め永之助と婚姻、後離縁し相川文五郎と再婚。大正10年没
慧吉 長四郎 教中長男 文久元年9歳で教中の家督を継ぐ東家三代目
武寛 勇蔵 教中次男 本家を継ぐ14代治右衛門
武文 三郎 教中三男 宇都宮寺町に分家
4人の子供が生まれている。

長男の慧吉は東家三代目として教中の家督を継ぎ、佐野屋長四郎(経政)となる。江戸店は豪商として関東大震災まで繁栄することとなる。また、長四郎は家業のほか、第四十一銀行取締役、両毛鉄道株式会社取締役、東海銀行監督後取締役頭取、日本セメント会社監査役、富士製紙会社取締役、東洋モスリン会社取締役、日本製麻会社取締役などに就任し、近代資本に転化して行った。さらに、長四郎は明治三十年東京府多額納税者選挙において貴族院議員に当選し、二期連続し、勲四等、従六位に叙せられた。

二男の武寛は養子となって本家を継ぎ十四代佐野屋治右衛門となる。
そして、長女の久子には、真岡代吉と志津の次男政隆を養子に迎えて、本所外出町に質屋を出店させた。政隆は初代永之助となる。永之助の嗣には、大橋家から陶庵(訥庵と巻子の養子)の四男を養子に迎え、明治35年には東京市内における大質屋の番付で第9位にランクされる質屋となった。

三男武文は宇都宮寺町を継いで、桑嶋・岡本両新田併せ280町歩を有する大地主となり、農地改革に至るまで名望家として知られた。

37歳の若さでこの世を去った教中の血が、各分家にしっかりとそのDNAを残すこととなった。

天龍院にある武寛の墓

祖父久吉による本家の系図は、十四代目で途切れている。
蓋し、本家十五代目竹雲は大正4年(1915)生まれで、明治9年(1877)生まれの久吉より38年後に生まれている。

祖父久吉は栃木県小山の岡部家の人で、菊池永之助の一人娘艶子と縁組して菊池の養子となった。永之助夫妻には子がなく、大橋家から養子正|を迎えて家督を継がせたが、永之助43歳にして一子艶子を得る。
艶子は実子ではあったが、すでに家督は養子に譲った後だったので、久吉・艶子夫婦は分家して、大塚に質屋を開業することとなった。


十五代目 治右衛門 竹雲
大正4年(1915)〜昭和38年(1963)
竹雲 豊
昭和三十八年十二月六日卒享年53
法名 徹心院竹雲治豊居士
菊池家系図には記載がないが、宇都宮正福寺の本家の墓所に菊池家墓誌がある。この墓誌は昭和38年9月23日に竹雲によって建立された。約120平米の敷地にずらりと並ぶ、4代治右衛門以下の墓石群について、一人一人の法名、没年を記した墓誌が建立されて3か月後に竹雲は亡くなっている。     

正福寺本家墓所にある墓誌


17〜18世紀へ 東家の活躍へ