佐野屋の起源と勃興 

1.佐野屋の起源 17世紀から18世紀


菊池神社

九州菊池一族

 菊池を名乗る多くの氏族がそうであるように、わが菊池家もその起源を九州熊本の菊池氏(菊池武時)に拠るとされている。
 菊池は菊地とも書き、くくち きくいち  とも読む。摂津(現在の大阪府北西部と兵庫県の東部)に久々知(くぐち)の地名があり、ここに住んだ氏族の分流が肥後(熊本県)で大族の菊池に発展したという。
肥後の氏族の祖については藤原隆家流説,伊周流説,分家流説があるが、近年は大村,木村同祖とする説が有力である。

 
熊本県菊池市にある菊池神社は祭神菊池武時を祀っていることで知られている。
付近には菊池渓谷、菊池温泉、菊池高校など、菊池を名とする名所などが多く存在する。
南北朝の勤皇の武士として知られる菊池一族であるゆえに、幕末動乱の渦中にあって、菊池教中がその祖を菊池武時に求め、自らも勤皇運動に身を投じて行ったのも頷ける。また、教中の母民子も、大国隆正、吉田敏成に国学の教えを受け、尊皇の女流歌人として知られていた。そして、娘の巻子には、当時、勤皇攘夷の思想家であった大橋訥庵を養子に迎え、幕末から明治維新へと至る日本の歴史に一石を投じることとなった。


久々知神社(兵庫県尼崎市)
家紋について

熊本菊池一族の家紋は「並び鷹の羽」であった。
当菊池家の家紋は「木瓜(もっこう)」である。
ところが、宇都宮生福寺にある本家の墓所には「鷹の羽」の紋が刻まれている。
淡雅の着物には木瓜の紋がついているので、淡雅の分家、江戸出店の際に紋を変えたのであろう。

なお、天龍院にある菊池家叢墓の片隅にある、善楽院(14代治右衛門武寛、教中次男)の墓石の基壇にもこの紋所が刻まれている。
ちなみに、この家紋は大変珍しいようである

九州の菊池一族が南北朝の戦乱で敗れ去り、東北地方に移住したため、岩手県を中心に菊池姓が関東以北に広がったとされる。

「菊地」から「菊池」へ
菊池と菊地、よく混同されやすい名前です。当家も実は現在の菊池ではなくて、もともとは菊地だったのです。菊池教中の代になって、菊地から菊池に改名したのです。この時の状況について、興味深い文献が残っています。
宇都宮藩縣信緝から菊池民子宛て書状(7月19日文久3年か?)

「澹如先生御肖像出来候。能御似セ候而御生前想やり申候。右御衣服の御紋之事、先
生は一旦佐野屋の家を出て武門に身を興させられ候而兼ゞ王室を御尊崇之心厚く楠公
菊池公之忠烈を欣ひ慕ひ思召候処、兼而御家は菊地姓なる所、妙ニ符合之事とて姓氏
を御せんさく候処、菊ちと申ハ肥後之菊池郡より出候外ニ支流は無之候ヘハ、地ハ池
の字形と音の同しより誤れるもの疑なしと訥庵先師之御説も有り候故、喜ひ思召候而
菊地を菊池と御改メ候事にて候ヘハ佐野家御相続候ヘハ古くよりの文字菊地と御認も
可然、其家を出て武門に一家を御立て候上ハ菊池と御認被成候方神霊ニ被為対孝志た
るへく候。されハ紋も先生は七九ノ桐、猶此上先生の家を御嗣候ハゞ其通りにてよろ
しく候半歟、是も唯神霊ニ孝のミに無之、後世に忠孝之子孫を出すの基にも候歟。」

訳文
澹如先生のご肖像が完成しました。よく似ていらっしゃるので、生前のお姿が想い出
されます。肖像に描かれた衣服の紋所の事ですが、先生は一旦佐野屋の家を出て武門
に身を興されましたが、以前より王室を尊崇する心が厚く、楠正成公、菊池正観公の
忠烈を欣(よろこ)び、慕わしくお思いになってらっしゃったところ、以前より自分
の家が菊地であるということを妙に符合すると思い姓氏をお調べになったところ、
「きくち」と云うのは九州肥後(熊本)の菊池郡の出身の他には支流もなく、「地」
は「池」と字も読みも同じであることから間違えて今日に至ったということは疑いな
いという故大橋訥庵先生の説もあるので、うれしく思われて菊地を菊池と改名された
のです。商家の佐野屋を相続したならば古くからの字である「菊地」と認めるのも
もっともですが、商家を出て武家として一家を立てられた上は、「菊池」と認められ
る方が神や祖霊に対して孝志を表わすものではないでしょうか。このため先生は家紋
も七九の桐で、この後も先生の家を嗣ぐのであればその通りでよろしいのではないで
しょうか。これも神や祖霊に対する孝心から出たものに他なく、後世に忠孝の子孫を
輩出する基ともなるものに違いありません。

『菊池家中興ノ系図』(菊池教中編)より
 「菊地ノ地ノ字、池ノ字ヲ書ザルハ中興ノ誤カ又ハ故アリテノコトカ、其事詳ナラ
ザル也」

菊池と菊地とはもともとは同一の起源であったと、江戸時代から定説になっていたことがわかります。その起源とはもちろん、熊本の菊池郡です。
菊地という地名は群馬県高崎市の菊地町と、岐阜県岐阜市の菊地町の二ヵ所だけです。これは、だいぶ後世になって付けられた地名だと考えられます。

では、次にこんな小説を紹介します。
「菊池伝説殺人事件」内田康夫作

歴史への登場

四代目 孝昌 
〜承応4年(1655)未3月13日
宇都宮菊地氏創建 此御方より本家興り候由(淡雅 店教訓家格録より)

『菊池家中興ノ系図』(菊池教中編)より

「淨室清光禅定門 長四郎の称賜りてより四代目也
  承応四年乙未三月十三日 今を去ること百九十九年 長四郎と称す、諱を孝昌と云う、菊地氏。
 妻は詳ならず
  此の御人より本家振い興りたるよし、此前三代は皆長四郎を以て称とす、又先祖何代と云うこと
  を知らず、其故は明和年中の大火に菩提所も共に類焼して系図等尽く焼失せしにぞ、元祖は塩を
  商いしよし、故に今も猶十一月十四日塩屋日待とて汁香物に人参蒟蒻芋などの平を添え、至りて
  質素なる儲けにて人をも招き、且つ家内も祝い、又翌十五日の朝赤飯を炊くこと例なり、是は其
  頃より仕来りの儘なるよし。
  ○元祖は何の頃宇都宮に移り住みにしや、元は佐野より出たる人のよしなり、佐野の遠藤氏とは
  何の故と云うことは知らねど、古きより互いに親類のように仕来りしは、何れ因故あることなる
  べし。
  ○菊地の地の字、池の字を書かざるは中興の誤りか、又は故ありてのことか、其事詳かならざる
  也


由井正雪 慶安事件(1651)
徳川家綱4代将軍となる(1651)

承応4年(1655)乙未3月13日 四代目孝昌卒 享年不明
称長四郎
法名 慈昌院淨室清光禅定門

菊池氏系図によれば、
「妻は詳らかならず、この御人より本家振興す。」
とあり、これ以前の3代については明和年中の大火(明和9年1772)で菩提寺とともに、家屋も焼失して系図が失われたとされている。
言い伝えによれば、四代目の前は三代みな長四郎と称しており、元祖は栃木県佐野の出自で代々塩を商いしていたとある。


祖父久吉より伝来の系図。
四代目孝昌より記述されている。
登場する年記は承応4年(1655)の没年である。徳川4代将軍家慶の時代で、由比正雪による慶安事件のころで、家康にはじまる徳川政権の矛盾が社会に出始めた時代である。

塩屋の日待ち
11月14日には「塩屋の日待ち」という行事が家内で行われていたらしい。
汁、香の物に人参、蒟蒻芋などを平に刻んだものを添えた質素な食事を用意して来客をもてなし、また家内も祝い、その翌朝は赤飯を炊く。こういうしきたりができたのはこのころからであった。
日待ち信仰とは?






五代目 長作
〜貞享3年(1686)

江戸 明暦大火(1657)
徳川綱吉5代将軍となる(1680)

貞亨3年丙寅(1686)12月14日卒 亨年(空白)
法名 演空道説信士
妻は宇都宮山田三右衛門の娘 法蓮妙説信女 元禄11年戊寅(1702)日卒

(以下、「菊池家中興ノ系図」より
 浄室清光君ノ子
 長作と称す
妻ハ
 法蓮妙説信女 名(空白)
   元禄11年戊寅日 亨年(空白)
   宇都宮山田三右衛門ノ女(何ノ頃ニヤ山田氏ノ家断絶シタルヨシ)
   


閑話休題 戒名の話
生福寺は日蓮宗なので、正しくは法号と呼びます。
本来の戒名は二文字で、一字を生前の名前から、もう一字は仏典からという組み合わせが基本になります。名前の一字の入れ方は様々で、院号や道号に入ることもあります。
慈昌院淨室清光禅定門 演空道説信士 法蓮妙説信女 夫婦が対になった戒名ですね。
そして、前後に院号、道号、位号などが付いて長い名前になる場合が多いようです。
院号 慈昌院淨室清光禅定門
道号 慈昌院淨室清光禅定門 演空道説信士 法蓮妙説信女
位号 慈昌院淨室清光禅定門 演空道説信士 法蓮妙説信女

このうち、院号はもともと皇族にのみ許される最上の呼称でした。時代がすすむにつれ、皇族以外にも寺に貢献があった人につけられるようになったのです。さらに、大名や首相、大臣、大会社の社長などには、「○○院殿」といった豪華な院号が用いられるようになりました。

「道号」では、本人の人柄、仕事内容、趣味等を象徴する文字が選ばれる事が多いようです。 現在では、道号付の戒名、すなわち4文字が一般的になっています。 本来「道号」とは、かっての中国で用いられた尊称で、仏教では「仏道を修得した」特別な人に対する呼び名です。

 「位号」は、下についている居士・大姉などの尊称のことです。信士・信女となっている場合もあります。大居士・清大師という豪華版?もあります。 小学生や未就学児など子供さんの場合は童子・童女、乳幼児に対しては孩子・孩女(がいし・がいにょ)か嬰子・嬰女(えいじ・えいにょ)がそれぞれ当てられます。 また禅宗系や浄土宗では、禅定門・禅定尼が用いられることもあります。

一般に戒名の格ということが言われますが、
居士・大姉⇒信士・信女⇒禅定門・禅定尼という順序になるようです。

義烈院真岸澹如居士←これは菊池教中の戒名です。

さて、本題にもどって、、
長作君の戒名ですが、院号もなく、居士より格下の信士が用いられています。また、その前四代がいずれも長四郎と称し、六代目以後は治右衛門、治兵衛、治郎兵衛などを称していることを考えると、四代目長作君のみが、ちょっと異質なものを感じます。この理由については当時の資料もなく、今のところ謎に包まれています。


六代目 治右衛門
〜宝永7年(1710)

生類憐みの令(1687)
柳沢吉保老中の上に列す(1698)
徳川家宣6代将軍となる(1709)
新井白石正徳の治(1709)始まる
宝永7年庚寅(1710)2月22日卒
法名 真光院淨安道榮居士 享年不明
五代目長作(演空道説君ノ子)の子
治右衛門ト称ス

妻は 法名 遍明院淨安妙榮大姉
 享保3年戊戌(1718)4月26日卒 享年不明
 何氏ヨリ嫁シ来ルヲ知ラズ

六代目までは没年の年齢が明らかでない。次の七代目から享年を墓誌に記すようになる。


七代目 治右衛門
元禄3年(1690)〜寛延元年(1748)辰8月21日
法淋院御養父 中興大功の御人(淡雅 店教訓家格録より)

徳川家継7代将軍となる(1713)
新井白石罷免さる(1716)
徳川吉宗8代将軍となる(1716) 享保の改革はじまる
大岡越前町奉行となる(1717)
徳川家重9代将軍となる(1745)

寛延元年戊辰(1748)8月21日卒 享年58歳
法名 秀光院清月淨心居士
真光院君(六代目)の子
治右衛門と称す 

妻は
宇都宮岡部太兵衛の女 法琳院君(八代目治郎兵衛、岡部家より菊池家に養子に入る)の叔母に当たる。子なくして死す
法名 好善院清月妙雲大師 享保4年己亥(1719)8月10日卒 享年不明

後妻は
宇都宮大工町より来る。その氏名不詳(何氏ト云コトヲ知ラス)
法名 榮壽院淨林清心法尼 宝暦11年辛巳(1761)5月29日卒 享年不明

二子を生む
○真明院清樹浄薫大姉
 名は千代 
 享保10年甲辰出生
 元文元年庚申5月29日卒 亨年16


七代目治右衛門の記事に 「本家中興の御人、大阪より古着を取引し始めたるはこの御人より」と特記されている。

「その頃菊地氏は古衣転販を以て業とせしかば、先考(淡雅知良)常に流れ物の衣服を買いしが為に、近隣郷近国の典舗(シチヤ)に行かるるに、、、」(淡雅行實)
とあるように、古着の商売の形態が定まったのはこの時期と思われる。

佐野屋の発展過程において、いわゆる暖簾分けによる支店網の構築によって商売を拡張して行ったが、これは七代目治右衛門が享保年間、矢田部与兵衛に暖簾を分け別家創設したのが始めとなった。その後、次々と分家・別家を別出して九代目治兵衛の代までに、孫別家を含めて10店舗の<暖簾内>を形成した。

岡部太兵衛家について



宇都宮成高寺




岡部太兵衛家も八代治郎兵衛の時に暖簾分けにより別家となったが、菊池家とは姻戚関係にあり、深いつながりが出来て行ったと思われる。
岡部家の菩提寺は宇都宮成高寺とのことで、寺を訪ねたが岡部家の墓所を見つけることはできなかった。

なお、真岡には岡部記念館「金鈴荘」(栃木県指定文化財)が公開されており、真岡の岡部家はやはり真岡木綿の商家だったということなので、岡部太兵衛の関係ではないかと推察できる。近々に訪れたいと思う。


八代目 治郎兵衛
享保3年(1718)〜寛政3年(1791)亥2月25日
秀光院の御婿養子にて賢徳院實光院両君の御祖父也、明和三年戌六月十八日洪水同四年亥四月八日、安永二年巳三月七日両度の大火に類焼、此三度の災にて家相続既に危きの処救ひ予め元に復し給ふ功有御人(淡雅 店教訓家格録より)

徳川家治10代将軍となる(1760)
田沼意次側用人となる 田沼時代始まる(1767)

寛政3年辛亥(1791)2月25日卒 享年73歳
法名 法琳院淨室歡英居士
岡部太兵衛より養子に来る。岡部氏の菩提寺は成高寺なり。

妻 久米
天明4年甲辰(1784)2月14日卒 享年57歳
法名 照譽院清室妙音大姉
秀光院君(七代目)第二女。母は榮壽院(岡部太兵衛の女)

姉 千世(千代)
元文5年庚申(1740)5月29日卒 享年16歳
法名 真明院清樹淨薫大姉
秀光院の長女。母は榮壽院。

七代目には男児がなく、千世、久米の二女をもうけたが、長女千世は16歳で亡くなったため、次女の久米に岡部家から養子を迎えている。
久米の母は岡部太兵衛の娘榮壽院であり、榮壽院は八代目の叔母にあたるということから、八代目満真は岡部太兵衛の孫ということになる。
この夫婦は従兄妹の関係であった。夫婦ともに半分ずつ岡部家の血を引き、岡部家との関係の深さが思われる。

八代目の時に暖簾分けした別家は
鈴木久右衛門
岡田新兵衛
岡部太兵衛
の3家がある。



九代目 治兵衛 満真
寛保3年(1743)〜天明7年(1787)

天明7年丁未(1787)3月16日卒 享年44歳
法名 盛徳院圓應鐘智居士

妻 名前不明
明和9年壬辰(1772)6月28日卒 享年不明
法名 清池院蓮光妙慧大師
宇都宮大工町小松屋矢口氏より来る。二子を生む。

後妻 伊与
文政11年戊子(1828)2月25日卒 享年76歳
法名 真覺院清顔妙香大姉
粟宮大橋幸右衛門盈清院の女
孝古君、栄親君の母

妹 登
安永5年丙申(1776)正月3日卒 享年30歳
法名 陽現院梅室妙善大姉
法琳院の子

九台目満真の時に暖簾分けした別家は
小倉荘七
斉藤与八
の2家


粟宮大橋家について
粟宮はかつて栃木県下都賀郡間々田町粟宮、現在は栃木県小山市粟宮。東北本線の間々田駅と小山駅の中間ほどにある。
大橋家の祖は伝説の英雄、俵藤太藤原秀郷に出で、その中頃に廣信という者が大橋邸に住み、遂に氏となした。代々小山氏の武将として名を馳せたが、小山氏が滅んだあとは、各所を転々とした。照重という人の時に粟宮に隠れて帰農した。
享保初年に法名を寶樹院というものがあり、大橋家の本家の後継者に入嫁して一女を生じたが、後に夫が死亡した為、本家の北屋敷に娘を携えて分家した。この寶樹院が伊与の祖母、淡雅の曾祖母である。その一女、法名安住院は下妻(茨城県)吉田氏の息子知玄を養子に迎え、知英を産んだ。
吉田氏より婿入りした知玄が伊与の父幸右衛門であり、知英は幸左衛門すなわち淡雅=佐野屋孝兵衛の父である。
大橋家はその後も子孫興隆し、現在の当主は14代大橋好雄氏で栃木県野木町に在住しておられる。



19世紀へ