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大橋淡雅像 椿椿山画
嘉永年間 江戸東京博物館蔵 絹本着色 
127.0×55.5
 
(安政六年(1859)刊「淡雅雑著」より)淡雅(17891854)は江戸日本橋元浜の豪商佐野屋の主人で、関東文人たちのパトロンであった。通称佐野屋孝兵衛、東海と号した。温厚で、慈善の志厚く、人柄の良い淡雅を描く。読書・学問も好み、コレクターとしても著名であった。今回、新たに発見された「大橋淡雅像」は大橋家に伝来したもので、箱の表書には「東海翁像并自賛」と書かれていたが、別絹の賛部分を書いたのは、養子であった訥庵の息子(義弟の間違い)であった教中である。款記はないが、右に「椿弼写照之印」が捺され、その位置とサイズから考えて、「大橋淡雅夫人民子像」と対であった可能性が高い。こめかみのシミが描かれていない。
参考文献:「高久靄酷W」(栃木県立美術館、昭和50年)


大橋淡雅夫妻像 椿椿山画
江戸時代後期(弘化以降)絹本着色
 夫妻像を一幅の中に描いており、年が入っていないが、生前の寿像であろう。大橋淡雅像と近い時期の作であろう。 


大橋淡雅夫人民子像 椿椿山画
 嘉永年間 龍泉寺蔵 栃木県重要文化財 絹本着色 
54.8×32.3

大橋淡雅は叔母の嫁ぎ先であった宇都宮の古着商菊池介介(かいすけ)の養嗣に迎えられ、文化九年(1812)に18歳であった介介の娘民子と結婚した。その後、江戸日本橋元浜に出店し、呉服問屋、両替商、質店もやった。今回、この作品と対と考えられる作品「大橋淡雅像」が発見された。



菊池澹如肖像 
菊池次郎所蔵 葭田蔡泉筆(模写画は栃木県立博物館蔵)

菊池教中は大橋淡雅と民子の子で日本橋元浜町に生まれた。家業佐野屋を継ぐとともに、下野国河内郡に桑島・岡本新田を開発して宇都宮藩主に認められ武士の扱いを受けるようになった。新田領主として屯田兵を組織し、倒幕を企図したが計画は挫折し、坂下門外で老中安藤信正の暗殺を企てたが、大橋訥庵が事前に捕縛されると、これに連座して捕らえられた。「澹如詩稿」のほか、獄中日記である「幽囚日記」を著した。文久2年8月に出獄して宇都宮藩へ預けとなったが直後に病死している。


「淡雅雑著」(安政6年 1859 蘊真堂刊) 葭田蔡泉筆
淡雅の人物行状などを息子の菊池教中、婿の大橋訥庵が編集著したもの。「保福秘訣」、「富貴自在」とともに3巻に収められている。







吾褄絵姿烈女覚 明治13年 錦絵 柳水筆
「大橋訥庵の妻巻子」
巻子は、淡雅と民子のの次女で18歳で清水赤城の子順蔵に嫁いだ。順蔵は淡雅の実家である大橋家を継いで大橋訥庵と称し、門人を集めて日本橋に思誠塾を開き、勤皇攘夷の思想を教えた。攘夷の献策が幕府に容れられず、輪王寺宮を奉じて日光山に挙兵を企図したが、計画は潰え、坂下門外の変の黒幕となったが密告に遇い事前に捕縛され投獄された。巻子は夫訥庵と弟の菊池教中の獄中を案じつつ、勤皇の志を歌日記に綴った「夢路の日記」を著した。

天かける魂(たま)の行方は九重の御階(みはし)のもとをなおや守らん



菊池教中書
古橋懐古館蔵(愛知県豊田市)
北宋時代の儒学者程明道の漢詩「秋日偶成」の一部

万物静観すれば皆自得
四時佳興人と同じうす


道は天地に通ず
有形の外思い入る風雲変態の中




大橋淡雅書
且R貴佐野屋蔵

明の書家宋克の書を淡雅が臨書(宋克の書を手本として書いたもの)したもので、その文章の内容は漢時代の書家鐘ヨウの書法を、梁の武帝と、同時代の書家庚肩吾が批評したもの
「温卿」の署名がある。



菊池教中書 扇面

且R貴佐野屋蔵

「寄訥庵兄 澹如中」の記述がある。

教中漫録
「嘉永五壬子春」(1852)の年記がある
且R貴佐野屋蔵

教中25歳の頃の肉筆手帳
78ページにわたって様々な書体で漢詩が筆写されている。
横16cm×縦7cmの小さなサイズで、日常携帯して書幅などを臨書したものであろうか。


温卿四行書 七言絶句

2008年6月オークションで落札
淡雅は書家としての評価も高く、また書画の鑑定においても世に知られた存在であった。
嘉永元年の江戸雷名文人寿命附に
「大極上々吉 壽九百年
  たくみなる書法は人の知る通り
   またそのほかに書画の鑑定」
とある。

菊地教中法書

弘化元年(1844)成立。教中17歳の書
「印章に「中正私印」とあり、これを曾孫晋二氏(惺堂)に糺すに初めは中正を以て名とし以後教中と改めしと云う。」二峯氏注釈

中国の漢詩を様々な書体で書写したもので、法書とは書道の手本のようなものであろう。
虫食いなどで傷みが激しい。、