文政7年(1824)〜明治14年(1881)
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大橋巻子は大橋淡雅の女として文政7年(1824)に生まれた。父は下野国小山、大橋英斎の4男で、15歳の時、宇都宮の古着商菊地孝古の養子となった。
母民子は夙に歌学を嗜み、大國隆正吉田敏成等の国学者に就いて学んだ。巻子は母によってこの学を修め、その歌会には常に出席して見事な歌を詠じている。
父淡雅は長女巻子に然るべき人物を迎え、自分の出自である大橋家を継がせようとして、八方捜索し、ついに佐藤一斎門下の俊英であり、当時著名な兵学者であった清水赤城の四男順蔵を見出した。一斎は親交のあった淡雅の求めに応じて、清水赤城に縁談を持ち込んだ。赤城ももとより旧知である淡雅の申し出に承諾した。
「先生は常々富家の助けがなければ人を集めて教育することは出来ぬと云っていたが、丁度大橋淡雅は有財者無学、有学者無財、もしさるべき学者に財を与えて道を行わしめば、世のたすけとならんと一斎に語れば、一斎はたと手を打ち、そは妙案なりと先生を引き合わせ、淡雅も欣びてこれを引き取りぬ。」(殉難録稿)
かくして、天保12年(1841)、巻子は数え年18歳にして大橋順蔵(訥庵)に嫁いだ。
結婚後は初め淡雅の居住する日本橋元浜町近くの橘町3丁目に思誠塾を開き、そこに6年間居住する。この後、村松町に新築して移り住むが、安精2年の大地震で家屋崩壊し、世情も騒々しくなり、幕府の追及をかわす目的もあり、都心部を離れ、向島小梅町に居を移した。小梅町の家で文九2年を迎え、訥庵は伝馬町へ入牢。その年のうちに夫訥庵と、弟教中を失うこととなる。
幽囚の夫と養子義、弟教中を思い、「夢路日記」を著すのはこの時期である。巻子は,この後も「お巻さん」と呼ばれ思誠塾を継いだ養子陶庵と晩年を暮らし、明治14年(1881)12月23日58歳でその生涯を閉じた。谷中天王寺墓苑に埋葬されている。
夢路日記(全文はこちら)
大橋訥庵は儒学者として、若くして有名であったが、その妻である巻子を世に知らしめたのは、夢路日記という一遍の歌物語であった。夫訥庵、実弟教中、養子正壽が坂下門事件に関連して投獄された文久2年正月から、同年7月12日における夫の死、8月8日弟の死、そして、8月28日に正壽が許されて出獄し、事件が落着するまでの、およそ半年間にわたる巻子の心情を40首の歌に織り込みつつ記したのが夢路日記である。
母民子より受け継がれた勤皇思想と、豊かな表現力を駆使して綴られたこの日記は、当時の尊攘志士たちや、九州福岡の女流勤皇家野村望東尼などに広く知られ、愛読されて行った。苦境に立たされた家族への切ない思いを込めながらも、その根底に流れる勤皇思想が多くの人々の心を惹き付け、後に政権を回復する天皇制国家における愛国婦人として高く評価されるにいたった。


我せをはしめて早うやしなひたてし子ともまておほやけのひとやにとらはれ侍りつるは今年文久二とせといふむつき十二日の夜になん有ける。
いとあさましうてなみたもえ出ず。されとおもひ直して
  中空の霞にしはしくもるとも
    春のひかりのてらてやまめや
  すへらきの御くにをおもふま心に
    天のめくみのなからましやは
かゝるひゝきのけしう江戸のくまくままで聞えみちためれはおほやけをはゝかりてつねにしたしうとふらひまうてこし人たにたえて音つれもなし。
  あさましさいふ斗りなし人心
    かゝる折こそ奥もしるられ
かゝる折も鶯のみ朝夕たえす庭に音つれ
  よの人は音つれたえしわか宿を
    とふもうれしき春のうくひす

山本周五郎 「髪かざり」より 横笛(全文はこちら
「婦人倶楽部」昭和18年10月号に掲載された、山本周五郎の小品 昭和62年新潮文庫版「髪かざり」に収録された。

小梅町の自宅に尊攘志士が出入りして倒幕の秘策を練る夫訥庵。40歳にならなんとしている巻子はある日から横笛を習い、練習するようになる。そして一橋家の近習山木繁三郎の密告で夫が奉行所へ連行されると、巻子は沈着冷静に夫の書斎にある証拠文書を焼却し、幕吏の尋問を受けても動じることはなかったという。
曰く、良人の為事については塵ほどのことも知らない。それに自分はちかごろ笛の稽古に夢中で、どんな訪客があるかさえ気づいたことはない。この様子で役人はすっかり嫌疑をはらしたのだという。
夫訥庵は、普段「育ちがちがう」「苦労を知らぬ」「気楽者だ」と思っていた妻が、実は緻密に注意を払い、神経はすみずみまで行き渡っていたことを初めて知るのである。「そう思ってみれば、あの笛もただの慰みではなかったかも知れぬ。客が来て、重要な話になると笛を吹く。それは密談の様子を外へもらすまいとしたためではないか。」
「巻子。。。。かれはもういちど心で呼びかけた。闇の空に思いうかぶのは、しかし、やはりいつものたおやかな、温かい微笑をたたえた妻のおもかげであった。」

官武通紀 巻三 坂下狼藉始末より
大橋順蔵妻

大橋正順の妻、巻子は民子の女なり、其志操男児に劣らず、夫の囚中籠居、著述を夢路日記と云、今録する所皆其巻中より抄す。

 皇の御国を思ふ真心は天の恵みのなからましやは
 世の人の音信たえし我宿をとふも嬉しき春の鶯
 諸共に語り合さんおりもがな今の憂をも昔にはして
 君が為世の為思ふ武士の清き心は神ぞしるらむ
 武蔵野に露と消行人よりも送るる袖のやるかたぞなき

巻子自筆の短冊
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大橋巻子家集
大橋巻子家集 菊池家蔵版  昭和13年11月25日発行 寺田剛編 菊池次郎発行

大橋巻子肖像(錦絵)菊池次郎氏蔵
大橋巻子筆跡 菊池次郎氏蔵
大橋巻子家集解説 寺田剛
夢路の日記
大橋巻子歌抄
大橋巻子書翰選
 大橋すう宛  文久二年二月二十四日
 菊池民子宛  同三月六日
 同右     同五月二十八日
 同右     同六月二十八日
 同右     同七月十五日
 同右     同七月二十八日
 同右     同閏八月二十八日
 同右     同十一月十一日
 同右     同十一月十五日

近世名婦百人撰
嘉永年間から明治初年までの有名婦人100人を挙げて、事績や歌、俳句などを挿絵とともに紹介した。義子皇后を始め、皇女和宮、近藤勇の妾澤子など幕末の女丈夫を描いている。この本が刊行された年に巻子は亡くなっている。
明治13年(1881) 岡田霞船著 聚栄堂刊
題言
我朝大化白雉の古へより貞婦と呼び列女と称する者を挙げんには棟に充ちて牛に汗するも尚ほ余りありて千載の下に昭々たり。然れ共遠く事久しければ其事績に於ても又疑ひの無きにしも非ず、然るに是なる本編に於るや聚栄堂主人の需めに応じ嘉永以来明治の今日に至るまで見聞する処の名婦一百人の小伝及び和歌俳句を挙げ其の肖像を模し実説を摘要して蒐集したれば幼童婦女をして雨の日雪の徒然を慰むる耳か又心を正し身を修むる一端共なるけれども如何せん一欄内に文字限りあれば事績を審悉する事能はざるより余が別に草稿を起し近世名婦伝と題し初編曩に発市せり又続編の発兌も近きにあれば詳細履歴を知らんと欲せるの児女幼童は倶より愛顧の購求を賜へと板主に代りて茲に本編の理由を述るになさん
          明治辛巳仲秋      岡田霞船識 

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万延の頃大儒の聞え高かりし大橋順蔵訥庵と号すの妻なり、然るに夫は慷慨義気ある人なれば国政を論じ又攘夷の説を主張し後三島三郎等に令し閣老安藤信正を撃んとして果さず竟に捕へられて獄中に在ること数月其後或る邸に幽閉せられて死す時に年四十八巻子は斯と聞くより天地を仰いで悲嘆しも其甲斐なければ心細くも漸々と我家に仇し光陰を送り夫の菩提を一心に弔い居りしが又た存生の頃杯を思ひ回らし尚も弥増悲嘆の涙袖を浸せし其折柄和歌をよめる

        天かける 魂の行へは 九重の 御階のもとを なほや守らん

近世報国百人一首
明治8年(1875) 高畠藍泉編 政栄堂刊
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訥庵は閣老安藤対馬守を狙撃するの首謀なりとて獄に下り後ゆるされて死す、妻その夫の獄にありしよりの事を録して夢路の日記といふまた歌文をよくして才名世に高し

        天かける 魂の行へは 九重の 御階のもとを なほや守らん


※大国隆正は、幕末維新期の国学者であり津和野藩士。寛政4年(1792年)1月29日、江戸津和野藩邸で生まれた。父は津和野藩士今井秀馨。今井氏はもと野之口姓であったので、父の没後野之口姓に復し、晩年大国氏に改めた。
 隆正、はじめ秀文・秀清、字は子蝶、通称仲衛・一造・匠作仲・仲蔵、号は戴説雪・天隠・如意・佐紀乃屋・葵園などと称した。
 文化3年(1806年)15歳のとき平田篤胤の門人となり国学を修め、また昌平黌に入って古賀精里(こが・せいり)の指導を受けた。また長島藩主増山雪斎に絵画を学び、詩は菊池五山に師事した。文化7年(1810年)昌平黌をやめ、本居宣長の門人、村田春門(むらた・はるかど)の門に入る。
 文政元年(1818年)長崎へ遊学し、西洋理学を研究して本教神理学の学派をたてた。文政12年(1829年)脱藩亡命、姓を野之口と改めた。
 天保7年(1836年)播磨国小野藩主一柳末延に招かれ、翌年同地に帰正館を創設し、藩主および藩の子弟に和漢の学を教授した。天保12年(1841年)京都に移って報本学舎を開き、尊皇敬神と誠を核とする教えを説き、それを「本教」「本学」と名づけて京坂の地に講じ、名声を得た。この頃の門人には玉松操、福羽美静らがいる。
 その後、姫路藩に招かれ、また嘉永元年(1848年)阿部正弘に招かれ、藩の子弟に皇学を講義したが、そのころの隆正の著書「倭魂(やまとごころ)」が藩儒江木鰐水の反発にあい、危うく罪を得んとしたこともあった。
 嘉永4年(1851年)、亀井藩主の希望で津和野藩へ復帰、京都において藩校養老館を監督した。
 安政2年(1855年)7月、福山に滞在し誠之館皇学寮で皇学を講じた。
 文久2年(1862年)、石見国邇摩郡大国村に至り、大国主命の故跡を発見し、その神社を再建させて姓を大国と改めた。
 明治元年(1868年)には、神祗事務局権判事をつとめ、神仏分離や廃仏毀釈などの神道主義政策を指導し、神祗行政に大きな影響を与えた。明治3年(1871年)3月には宣教師御用掛に転じた。
 著書に『古伝通解』『矮屋一家言』などがある。
 書を父秀馨に習い、また春門の影響を受け、草書および仮名交りの書を能くした。
 明治4年(1871年)8月17日没。享年80歳。東京赤坂霊南坂陽泉寺に葬る。 

※吉田敏成 国学者。通称信之助・慎之助、名は年成、号は千秋楼・月堂・思誠堂。江戸生。加藤千蔭・一柳千古・中島広足に師事。著書に『思誠堂漫筆』『敏成詠草』等。文久4年(1864)歿。