淡雅・教中 関連年譜
明和8年 1771 佐藤一斎 生まれる
天明8年 1788 淡雅 生まれる
寛政6年 1794 民子 生まれる
文化11年 1月 1814 淡雅 江戸日本橋元濱町に出店、家督を弟栄親に譲る。(淡雅26歳、民子20歳)
文化13年 1816 大橋訥庵 生まれる。清水赤城4男、江戸赤坂飯田町黐の木坂下
文化14年 1817 元濱町の本拠地へ移転
文政2年 1819 長女作 生まれる
文政7年 10月29日 1824 3女巻子 生まれる 次女慶は夭折?
文政11年 1828 長男教中 生まれる
文政11年 1828 淡雅分家して東家と称す
文政12年 6月3日 1829 東家落成 淡雅一家宇都宮に居住
天保8年 2月 1837 大塩平八郎のの乱
天保8年 5月20日 1837 長女作没(亨年18歳)12代治右衛門妻
天保10年 5月14日 1839 蛮社の獄 渡辺崋山就獄
天保10年 1839 巻子 訥庵と結婚。大橋家を継ぐ。巻子16歳
天保11年 2月14日 1840 訥庵実母常子(安平氏)没 
天保12年 1841 訥庵 日本橋橘町3丁目に思誠塾を開く
天保14年 1843 宇都宮藩老中戸田忠温、訥庵をを江戸藩邸に招き書を講ぜしむ。これにより、訥庵は宇都宮藩儒となって、宇都宮藩の士籍に列せられ、7人扶持を給せられることになる。
弘化元年 1月24日 1844 縣六石、訥庵の思誠塾に入門(入門の正式許可はその年4月16日)
天保14年(1843)12月3日、縣六石(当時21歳)は宇都宮藩を脱藩、江戸へ出奔した。この脱藩について、江戸藩邸にあった間瀬和三郎(後の宇都宮藩主戸田忠至)から教中に宛てた書簡には
「出奔となさず勘当と致したく努力したが、法規の致す処止む無く出奔と致した。しかし貴公よりの来書は、縣にも見せ申し、ご親切の段よくよう身にしみたようである。」
脱藩出府した六石は佐久間像山、梁川星巌の門に入ろうとするが、果たせず一旦帰郷する。12月12日、両親の許可を漸く取りつけて再び江戸へ向かう。開けて正月1日、橘町の思誠塾に訥庵の講義を聴講した。
弘化2年 6月25日 1845 訥庵、六石を陪従して箱根温泉に遊ぶ。
嘉永元年 1848 思誠塾 村松町へ移転新居落成
嘉永元年 5月 1848 清水赤城没 亨年83歳
嘉永2年 3月 1849 六石、菊池淡雅を訪ね訥庵への取りなしを依願。
(六石は帰藩を迫る実家からの督促を逃れて弘化4年(1848)江戸を脱走して伊豆へ隠棲する。訥庵にも無断で出奔したため、江戸思誠塾へ戻ろうとしても訥庵に許されなかった。)
嘉永2年 7月23日 1849 箱根温泉に入湯中の菊池淡雅と教中を六石が訪ね数日にわたって清談、伊豆山中を跋渉する。
                  書簡資料(六石より母上様へ)
嘉永2年 12月1日 1849 淡雅還暦祝 佐藤一斎より寿文が寄せられる
嘉永4年 3月 1851 倉掛新路碑建立 教中碑文を書く
嘉永4年 1851 日光沢(奥鬼怒)温泉開発 淡雅63歳、教中23歳
嘉永6年 5月17日 1853 淡雅没 亨年65歳
嘉永6年 6月 1853 訥庵「闢邪小言」刊行 攘夷思想が多くの志士に影響を与える
嘉永6年 6月3日 1853 黒船来航、アメリカ、ペリー率いる4隻の艦隊が浦賀来航。通商と開港を幕府に迫る。
嘉永6年 8月 1853 訥庵「浦賀表御防御之義に付今日之急務愚存之趣奉申上候」を幕府へ上書
安政元年 2月 1854 訥庵「異国船渡来之儀に付又々愚存奉申上候」を幕府へ上書
安政元年 3月3日 1854 ペリー再航、日米和親条約を締結する。吉田松陰、密出国を企て逮捕
安政2年 10月2日 1855 安政地震(M6.9)による江戸大火 店が焼失30,370両の大損害、村松町に移転していた思誠塾は倒壊
安政2年 10月 1855 教中 岡本新田の開発に着手
安政2年 11月27日 1855 宇都宮藩主戸田忠至より開墾事業を賞せらる。
安政3年 4月 1856 思誠塾向島小梅町へ移転、
安政3年 5月 1856 教中 桑島新田の開発に着手
安政4年 1857
安政5年 8月8日 1858 戊午の密勅が水戸藩に下る。
安政5年 1858 菊池民子 歌集「倭文舎集」版行
安政5年 9月 1858 安政の大獄 訥庵捕縛の誤報が流布される。
安政5年 10月 1858 教中、江戸から資本引き上げを決意
「末世ニハ如何なる苛政に逢い申すべきもはかりがたく、公儀にて戦争相起候様相成候得ば、町家などは甚敷収斂に逢候儀必定にて、尤、公儀の用金等ハ防ぎがたき様に存し奉候。小諸侯の収斂ハ高の知れたるものニて如何様ニも防ぎ易き手談(段)幾等も工夫付申すべく候」(「安政5年10月付大橋訥庵宛教中書状」菊池小次郎家文書、北関東下野における封建権力と民衆 161頁)
安政6年 1859 頼三樹三郎の処刑に憤慨し、訥庵ほか思誠塾塾生数名で小塚原刑場に頼の屍体を洗い、棺に入れ石を建てて葬る。頼三樹収屍一件
万延元年 3月3日 1860 桜田門外の変 大老井伊直弼、水戸浪士により暗殺される。正確には安政7年(3月17日改元)※資料へ
万延元年 11月8日 1860 外国奉行堀織部正「上安藤対州書」を遺書に記し屠腹自殺する。
万延元年 12月17日 1860 教中 宇都宮藩より新田開発の功績に対して御家来並、扶持方七人扶持、御役人並席の取り扱いを申し渡される。
同時に、息子慧吉郎もこれまで教中に下されていた扶持を引き継ぎ、苗字帯刀を許され、町年寄格として町奉行の直支配を申しつけられた。
万延元年 8月 1860 皇女和宮御降嫁勅許となる
文久元年 5月 1861 椋ノ木八太郎、戸田藩家老間瀬和三郎忠至の密命(勤皇運動)を帯びて上京。公卿の間を周旋し江戸に下る。
文久元年 7月 1861 訥庵宇都宮に下り教中に会って、種々の準備を整えて期を待つ
文久元年 7月 1861 教中 名を介之介と改め、慧吉郎(当時9歳)を「孝兵衛」と名乗らせて家督を譲る。
文久元年 9月5日 1861 訥庵「政権恢復秘策」を作成、椋木八太郎に託して議奏正親町三条實愛卿を通して朝廷へ上奏を企図する。
日光輪王寺宮擁立挙兵策頓挫。(輪王寺宮は江戸に登城していたため)
斬奸策(安藤信正襲撃)実行へ動き出す。
文久元年 9月 1861 兒島強介、訥庵の意を奉じて宇都宮を発足し水戸に赴く。水戸にて野村彜之介鼎實に会し、訥庵の意を述べて援助を乞う。「関東で東禅寺事件(英国公使館襲撃)の様なことでもあれば、(和宮)下向も延引するであろうから、拙者(訥庵)が元取りとなって斬夷をしたいが、今五人しか人がない為、あと五人を頼む」これに対し、野村は「斬夷は面白からず、斬奸ならば大賛成なり」として兒島を説き、斬奸に関して野村t相談を重ねた。9月末までには同志に相談し再来する旨を約して9月7日水戸より宇都宮に戻る。
文久元年 9月14日 1861 訥庵より教中へ書
「南八(椋ノ木八太郎)も定而最早(京都へ)到着致し、拙生の薬方書(政権恢復秘策)をヒロゲ掛候頃歟と竊相楽居候」
「兒島が水戸に談じ付け(斬夷の援護依頼)て帰った由、至極絶妙ではあるが、過日も述べたように、先日の策は最早行われぬから、今はそれほど急ぐの要もない。また急に倒奸(幕府閣老襲撃)という事を謀っても功を得難いから、機会を窺うことが肝要である。殊に今は自分の身辺は甚だ危険で、幕吏の厳重な監視下にあるから、時節柄注目されている水戸藩士の来るのは最も危険である。但し準備の必要上、兒島並びに水戸藩士一人くらいは、竊かに寄こしくれたし」
「拙生此節の意は、南八に薬方書を為持遣候故、其様子相分リ候上之事に致候方可然と存居候、薬方書先方(正親町三条から朝廷)之気に入候而其薬を服用(秘策を採用)致候て見度と病人(朝廷)が被申候節は拙生直様(京都へ)登候積りニ御座候」
「其時思ふ通りに療治が参り掛候得ハ、一時ニ余程之人数無之候而ハ相叶不申候故、暫時ハ不動して病人之容体相分り候迄忍居候方と存候」
「右拙之薬方効能之有無ハ其内模様相知レ可申候、和印之下りが此場ニて暫く止リ候得は拙生之薬キゝ候方と被思召可被下候、若又止らずして愈大病に相成掛候ハゞ、又々何と歟薬方を考え可申候、兎角にも暫時相待候ハゞ、其様子大抵分り可申候間、何事も右之様子ニ因て、後段之処置を考究討論致候方可宜候、貴意ニハ如何」
文久元年 10月20日 1861 皇女和宮降嫁、江戸へ発向、中山道を通って11月15日江戸に到着
10月28日 訥庵より教中に宛てた書簡
「花之方ニ於て拙之薬なども届兼候と相見、廿日辰ノ下刻發輿ニ相成候趣、昨日外方より知らせ参候、扨々嘆息之至可申様無之候、右様之譯ナレバ南八カ河本と申者一人ハ是非注進ニ帰来可致筈之處、一向ニ沙汰無之、是も頓と合點不参、日々怪しミ申候」
朝廷へ献策した「政権恢復秘策」の効もなく和宮は発向となった。上京中であった南八(椋之木八郎)と河本(河本杜太郎)は、献策の結果を持って訥庵のもとに報告に戻るはずが、未だ連絡もないので何か危急の事態が起きたのではないかと心配している。献策の事が露見したならば、訥庵らにも追求の手が及ぶためである。
文久元年 10月28日 1861 訥庵から教中宛書状
「多・尾(多賀谷・尾高)両生の策御覚期(覚悟)宜しく、母公云々迄御認めニ相成候由、感心致すべき事の様ニハ候得共、足下ハ単身の書生抔とハ違ひ、先孝の諸業を受継、大家の事故、余り御はやりなられ候方ハ甚宜しからす。・・・只今の処は両生大挙の策がハヅれ候てもいささか困らぬ様に御処置これあるべき事にて、身上を振ても掛ると申処ハまだまだ此場合にてこれなく候。・・・其勅が出候処にて、拙生は命をハメ申すべき覚期罷在候。勅のこれなき間、たとひ法印(輪王寺宮)シを棟粱ニ致候ても全く一時の権謀丈ヶにて全備の策ニハこれなく候」(北関東における封建権力と民衆164頁)
文久元年 11月 1861 小山春山より小山朝弘秘策が提議される。
12月19日 教中より訥庵宛て書簡
「昨。鼎吉(春山)之策一覧候処、事易成ニ似て難成様被存候。愈々之時ニ非れハ陣屋印も容易ニ手ハ出され不申、大概気之ある諸侯にても有志之者のみにて事を挙候ニハ応すること無之ハ火を観るより明なり、此策をやるならバ法印(輪王寺宮)を要する方、小生ハ近道と存候」
春山の策とは、関東の代官所を襲撃して
文久元年 11月10日 1861 訥庵より教中宛書状
「兼て約し置候方の一義を是より取掛り周旋致見申すべく候」
輪王寺宮擁立挙兵策が勅を得られず実行不能となり、最後に残された倒奸策=安藤閣老暗殺へと方針が絞られてゆく。
文久元年 12月19日 1861 教中より訥庵宛書状
文久元年 12月25日 1861 訥案より教中宛書簡
「此度は成敗とも残らず屠腹と決定致すべし。それを迷惑に存候者は早々に止メ候へ、・・・右の通り成敗共一同割腹と決定致させ候積り故、拙等へ連累の及候患ハこれあるまじく、・・・去りながら其節徒然として死ニ候てハ如何故、過日も御頼申置候通り、黄白の力を仮候に限り申し候。黄物さへこれあり候得ハ生路疑なき事故、其段は猶能御含置下さるべく候。」
文久元年 12月29日 1861 教中より訥庵宛て書簡
「小生ハ兎も角も藩(宇都宮藩)へ潜匿を頼ミ、愈不承知ならハ一策施し、窃ニ脱してなすべき様これありとハ存候。」
もともと斬奸策は水戸激派の主唱するところであり、訥庵はこれに加うるに、勅を仰いで挙兵という目的があった。このため、襲撃の実行部隊は事の成否にかかわらず屠腹の決死、訥庵や教中は難を逃れて後事に当たるという計画であった。
文久2年 1月8日 1882 訥庵、一橋公の近侍山木繁三郎を訪れ一橋公擁立挙兵策の上書取り次ぎを依頼。
「今一橋の者を動かしても出来ぬことであるから、公が野州へ御出になれば、兼々公を慕ふ者は一時に合流すべく、拙者の門人も四五十人はあり、これに檄を伝えれば、水戸は勿論、近所の諸藩も同意するであろう。その時一橋から幕府と朝廷へ攘夷の先鋒を引受度旨を達せば、必ず成功するであらう。」
文久2年 1月12日 1862 訥庵捕縛される。一橋慶喜擁立挙兵策が挫折。
文久2年 1月15日 1862 坂下門事件 老中安藤信正襲撃、重傷を負わせる。
文久2年 1862 教中逮捕される。
文久2年 4月27日 1862 菊池民子ら家族より訥庵、教中の出牢嘆願書が出される
乍恐以書附御嘆願奉申上候
 中略(全文はこちら
文久二年戌四月
   菊地介之介母  
   大橋順蔵妻子一同
   菊地介之介妻子一同
   右願人代 玄六
御領主様
  御留守居御役所