天龍院 

臨済宗妙心寺派
菊池家の菩提寺。宇都宮から江戸、東京へ進出した菊池家の墓所がある。また、菊池家から暖簾分けした吉田家(佐丹店)の墓所や、菊池家が援助した画家、高久靄崖、高久隆古の墓石もある。その他、幕末の名医、伊東玄朴の墓、教育勅語を起草したとされる神波即山の墓がある。


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八丁の湯
滝飛沫のかかる露天風呂
奥鬼怒温泉 2003年8月
川又温泉郷の更に奥にある秘湯奥鬼怒温泉は1854(嘉永4年)淡雅と教中の開発により広く人々が訪れる湯治場となった。近くには鬼怒川の源流である鬼怒沼(標高2020m)がある。
奥鬼怒温泉には八丁の湯、蟹湯、日光沢、手白沢の4つの温泉があり、光徳牧場から山王林道を北上して女夫渕(めおとぶち)に至る。そこからは、徒歩または宿の送迎バスを利用して温泉郷に入ることになる。湯量も豊富な秘湯である。     
                     
奥鬼怒温泉八丁の湯   Go
鬼怒沼トレッキング  Go
淡雅の奥鬼怒温泉開発(資料)  Go
                         


東岡本の穀倉地帯
収穫間近の水田
佐孝新田と東海神社 2004年9月

江戸における家業の遭難と、黒船の来航による世情不安から、菊池教中は本業を新田開発へと切り替える。鬼怒川西岸の岡本の荒蕪地を拓き、農民を入植して屯田兵の先駆ともいえる組織を作ろうとした形跡がある。
同時期に二宮尊徳も桑島新田の開発に関与している。
新田開発は坂下門事件により教中が捕縛され釈放直後にこの世を去ったのち、教中の長男慧吉(長四郎経政)によって事業が継承され明治9年まで続くことになる。

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勤皇の志士菊地教中の墓 案内板
宇都宮本家 生福寺 2004年9月9日

生福寺に菊地教中の墓があることを知ったのは、栃木県総合文化センター主催のとちぎ県民カレッジのセミナー第4回「幕末の悲歌−大橋巻子と『夢路日記』」に家内が参加したことがきっかけだった。県民限定で、しかも定員は満杯、締切も過ぎていたにもかかわらず、巻子の縁者ということで、無理矢理参加を許可していただいた。
セミナーの講師をされた元県立宇都宮女子高校教諭の稲垣那智子先生に案内されて教中の墓にお参りした。
そして、改めて生福寺に詣でた際、宇都宮菊池本家の墓所を発見した。それはまさに、祖父久吉が系図に残した菊地の歴史そのものであった。系図に記された4代目長四郎から15代竹雲の現代まで、歴代の当主とその縁者の墓石がずらりと並び、生福寺の仲でも最も広い敷地を占めていた。

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木綿のふるさと真岡  2007年6月

謎に包まれた人物、菊池代吉の消息を追って真岡の地を訪ねた。淡雅が江戸に出店して太物問屋として栄える背景には、11代栄親の養子に入って、木綿を買い付ける役割を果たした代吉の活躍が欠かせないためである。
残念ながら代吉の足跡は発見できなかったが、淡雅が一代にして築き上げた富の源泉を確かめることができた。
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巴波川べりの倉庫群
蔵の街栃木と大平山   2007年7月

栃木市は江戸時代市街地の中央を流れる利根川水系の巴波川を利用した舟運によって物資の集散地として北関東屈指のにぎわいをみせ、江戸との交易を通文化・経済ともに隆盛をきわめた。
真岡木綿を江戸へ送る交通の要地として佐野屋とも大きなかかわりがある。また、坂下門事件にいたる江戸との行き来も、舟運による交通手段が多くとられたはずである。
大平山は、一橋慶喜を擁してこの山に挙兵しようとした教中たちの計画があった。その後、水戸脱藩の志士たちが挙兵した地でもある。

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上野記念館イベントポスター
上野記念館「靄高ニ隆古展」   2006年7月

高久靄(1796-1843)は黒羽藩杉渡戸(栃木県那須塩原市)に生まれました。靄は同郷の豪商・大橋(菊地)淡雅の後援を受け、江戸画界の重鎮であった谷文晁の画塾・写山楼を訪れます。この時、靄の卓越した画力を見た文晁は、門弟ではなく客分として迎えたのでした。そして靄は、渡辺崋山、椿椿山、立原杏所らとともに、「文晁門四哲」と称されるようになります。
しかし1843(天保14)年、靄は急逝してしまいます。この訃報にパトロンである淡雅は、名家の画統が絶えてしまう事を憂い、白河の川勝隆古を高久家の養子にしたのでした。高久隆古(高隆古:1810-1859)は、若くして文晁の門人・依田竹谷に学んだのち、京都へ上り大和絵の画法を習得した人物です。このため、養父とは違った独自の画風を確立していったのでした。
本展では、和製「南画」から中国の南宗画へと傾倒していった靄、南画を踏襲し、独自の大和絵にたどりついた隆古、異なる画風を持ったふたりの作品を併せて展示いたします。また、この高久家を二代に渡って支援した淡雅と、その娘婿となった大橋訥庵、そして実子である菊池教中。さらに谷文晁を筆頭に門下四哲の崋山、椿山、杏所ら。そのほか小泉斐、池大雅、浮田一 など、彼らをとりまく人物たちの書画をご紹介いたします。

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靄克R人碑
宇都宮 観専寺「靄克R人碑」 2007年7月19日

高久靄高フ伝には、大槻磐渓撰文の「靄克R人碑」、大橋訥庵撰文の「靄克R人碑」、一条十郎撰文の「疎林外史帰去来図画記」、人見伝蔵撰文の「靄告謳カ追頌碑」碑文がある。このうち、宇都宮市材木町の観専寺にある大橋訥庵撰文の「靄克R人碑」は菊池教中の墨蹟になるものである。

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足利市 草雲美術館秋季特別展「人−顔と姿−」 2007年11月24日

通常は足利市龍泉寺に所蔵されている椿椿山筆「大橋淡雅夫人民子像」(栃木県指定文化財)がこの期間(2007年11月1日〜12月24日)草雲美術館に展示されているのを知り、足利市を訪ねた。折しも紅葉の美しい時期で、草雲の草庵である白石山房は楓の紅葉に包まれて見事であった。
特別展では草雲の国定忠治像をはじめ、椿椿山の「高久靄麹e本」や相澤石湖の「汁講図」など、栃木県ゆかりの画家の幕末から明治期の作品が展示されていた。


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兵庫県 久々知神社 古代ロマンと菊池氏 2007年11月10日

菊池の語源とされているのが、鞠智であり、久々智、久々知とも書かれる。そしてその由来を遡ってみると、3世紀の古代ロマンに遭遇する。邪馬台国の時代である。菊池という姓は日本でも最古の姓であった。

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高輪泉岳寺 南窓翁碑 大橋知良書 2008年6月15日

高輪泉岳寺と言えば播州赤穂浅野家の菩提寺で、浅野一族の墓所と忠臣蔵で有名な赤穂四十七士の墓所がある。赤穂浪士の墓域の一角に大橋知良の書になる南窓翁碑がある。南窓翁とは、忠臣蔵の講談を世に広めた柴田南窓という講釈師で、その功績をたたえその門人柴田南玉が起稿し、知良が筆書して石碑を寄進したものである。

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大橋訥庵旧居跡の案内板がある
淡雅のふるさと小山 2008年8月10日 

粟の宮医者大橋英斎の息子に生れ菊地孝古の養子として江戸に出店して一代にして豪商に成り上がった淡雅は、娘の巻子に清水赤城の子、順蔵(後の訥庵)を養子に迎え、大橋の名籍を継がせた。訥庵は江戸に私塾を開き小山の粟の宮に帰ることはなかったが、淡雅は粟の宮に屋敷を建てて訥庵に与えた。
粟の宮の屋敷は訥庵はしばしば立ち寄り宿泊したという。また、尊攘運動のさなか、宇都宮や水戸の活動家がこの屋敷をあじととして使い、坂下門外の変の出撃基地ともなったという。
小山は祖父久吉の実家岡部家の土地で、神鳥谷(ひととのや)に岡部家の墓所、光明寺がある。


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生福寺本堂
ふたたび生福寺へ 丹兵衛碑を探して 2008年8月10日

そもそものきっかけは、東京中央図書館に所蔵されている特別買上文庫の渡辺金造旧蔵資料に[吉田丹兵衛之碑] (吉田滿嘉) 大橋知良(淡雅)‖識 菊地[ヘ]中‖書]という文献を見つけたことからであった。淡雅が文を作り、教中が筆書したという親子合作の石碑があるという。早速、その拓本のコピーを取り寄せたが、あいにく、その石碑の所在情報はどこにもなかった。 しかし、碑文中に「葬寺街生福寺」の文字があったので、宇都宮菊池本家の菩提寺である生福寺を再訪した。そこで、拓本に刻まれたものと全く同じ文章を発見するに至る。

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(※渡辺金造 1874〜1965 旧陸軍中将、退役後史学の研究に専念し、幕末や国学に関する多くの書簡、資料を収集した。)


倉掛新路碑と道供養塔
倉掛の石碑を探して 教中書の倉掛新路碑 2008年9月15日

矢板市の学者、加藤恒の製文で菊地教中の書になる倉掛新路碑は、矢板市文化財に指定されており、矢板市のホームページでも公開されている。
数年前にこの石碑を探して矢板市倉掛を訪れたが、残念ながら発見できずに空しく帰ってきたことがあった。現在判明している菊池家関係の史跡のうち、この石碑だけが出会えずに課題として残っていた。
その後、ネット上で日光北街道旧道を訪れた人のブログなどが検索で出てきた。今回はこれらを参考にしつつ、探索経路を地図で調べ、再度探索することになった。

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東海道五十三次 日本橋
佐孝店の本拠地日本橋 佐野屋の江戸進出の跡を訪ねて 2008年11月2日

第10代治右衛門孝古には男子がなかったために、一人娘の民子に大橋家から養子を迎えて嫁がせる。佐治店は弟の栄親に継がせ、民子夫妻には資本を与えて江戸に出店させた。後に大きく成長する佐孝店の誕生である。佐孝=すなわち佐野屋孝兵衛、初代菊地長四郎が江戸に開いた店は日本橋元濱町、現在の日本橋富沢町になる。
佐孝店は文化11年(1814)の開店から、関東大震災による大打撃で閉店する昭和2年(1927)までの113年間、4代にわたってこの地で営業を続けた。当時の日本橋界隈の古地図を元に佐孝店の場所を探しながら、日本橋のビジネス街を散策してみた。

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坂下門と皇居西の丸
坂下門と皇居西の丸  新年一般参賀 2009年1月2日

西の丸を見学するためには、あらかじめ人数や日時の予約申込を行った上で、1日2回、それぞれ約1時間半のコースが決められている。このほか、天皇誕生日(12月23日)と、新年の一般参賀(1月2日)に入場することができる。いつも手前50メートルから眺めることしかできない坂下門だが、この日ばかりは、皇居側から門を見ることができ、門の下を通行することができる。
正月2日、幸いにも快晴の穏やかな日和で、11時、ロイヤルファミリーの2回目のお出ましも新宮殿の正面で迎えることができた。天皇陛下万歳!の斉唱と日の丸小旗の乱舞に圧倒されながら、先祖の勤王の志に触れた思いもして、日本人に生まれて良かったなあとあらためて思ったりもしました。        Go

千住小塚原回向院
小塚原刑場跡 回向院 菊池長四郎(惺堂書「烈婦瀧本の碑」2009年1月18日

小塚原は江戸時代の刑場であった。盗賊や殺人犯が処刑され葬られていることでも有名だが、安政大獄や、桜田事件、坂下事件の政治犯も多くここに眠っている。
菊池長四郎は烈士遺蹟保存会理事長の理事長を務めていたこともあり、桜田事件に連座して拷問の末に獄死した遊女瀧本を顕彰する碑文を書いている。この碑文の紹介と、坂下事件の殉死者が埋葬されている小塚原回向院を訪ねた。

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大洗 幕末と明治の博物館
幕末と明治の博物館 教中画「浅峰山水」が展示されている 2009年1月20日

ネットで入手した「坂下義挙録」をひも解いていたら、この本を監修した田中光顕伯(宮内大臣)所蔵の史料が大変多いことに驚き、その所在を調べたところ、茨城県の幕末と明治の博物館に所蔵されており、その一部が展示されていることを知りました。
早速、出かけたところ、やはり教中や訥庵の掛け軸や、児島草臣の墨蹟などが展示されていました。
ここでは水戸尊王党が中心ですが、幕末から明治にかけて活躍した人物の資料が多く陳列されていて、大変興味深いものでした。

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栃木県小山市粟宮 大橋訥庵旧居跡
再び粟宮(小山)へ 「大橋淡雅頌徳碑」 2009年4月27日

ネットで大橋淡雅を検索していたら、史跡訪問の日々というページをみつけた。小山の探訪記で大橋訥庵旧居跡が紹介されていたが、そこに「大橋淡雅頌徳碑」についての記事があった。早速、その碑を探しに再び小山市粟宮を再訪した。
そこには、江戸時代からの大橋家の墓石群と、平成2年に建てられた淡雅翁の頌徳碑があった。これまで出会った中ではもちろん一番新しい史跡であった。平成の今に至っても、なお淡雅翁の事跡を偲ぶ後裔が他にも居たのだと改めて知らされた。

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日本近世文学会春季大会
日本近世文学会 春季大会 菊池教中の経世意識と『澹如詩稿』 2009年5月17日

日本近世文学会の大会に参加した。お目当ては東京大学大学院の佐藤温先生の「菊池教中の経世意識と『澹如詩稿』」と題された講演である。佐藤温先生は、これまでも「富商大橋淡雅の文事と時局」という研究をやはり日本文学会の大会で発表されている。
文学会のホームページで今回の講演を知り、早速問い合わせてみると、会員でなくても参加費を払えば講演を聴講できるとのことであった。
早稲田大学国際会議場井深記念館で講演会が行われた。

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秋の奥鬼怒を歩く   2009年9月21日

初めてのシルバーウィーク5連休ということで、大渋滞を避けて午前3時に川崎を出発。川俣温泉の間欠泉にしばし足を止めて、女夫淵(めおとぶち)の公共駐車場に到着。この先奥鬼怒スーパー林道は一般車通行禁止で、奥鬼怒温泉郷までは徒歩、または加仁湯と八丁の湯の宿泊客の送迎バスで行くことになる。前回は八丁の湯、加仁湯に宿泊したので宿のマイクロバスで往復できたが、今回は徒歩で奥鬼怒を目指す。
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桑島新田と吉良八郎之碑 付:徳次郎二宮堰 2010年1月23日

吉良八郎は、茂木藩士で二宮尊徳の門人助手として高名であり、尊徳とともに栃木県内各所の新田の開発等に活躍した。
幕末には、菊地教中のもとで鬼怒川沿岸開拓の事業を大成させた。
碑は、この開拓の記念として吉良八郎の7回忌明治12年(1879)に建てられたものである。
撰文は陶庵大橋正寿(大橋訥庵養子)、碑文・篆額書は得堂菊池経政(教中長男)である。訥庵、教中の2世の合作になる。吉良八郎の碑は、鬼怒川堤を背に、桑島新田を見渡すように建っている。

所在地 宇都宮市桑島町401 宇都宮市消防団清原分団第9部横
碑石高 110cm
建碑年 明治12年3月
撰文者 大橋正寿
書・篆額 菊池経政